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道徳は「キレイゴト」なのか?

道徳科は「キレイゴト」という批判に常にさらされています。つまり、「そりゃそうだろうけど、実際はそうはいかないよ」ということですね。これは、別の角度から言い換えれば「徳目主義」ということになります。

徳目主義とはなんでしょうか。その説明として、奈良大学教授の中戸義雄氏は以下のように述べています。

道徳の授業で「友だちと仲良くしようと思います!」と元気よくいっていた小学生の男の子が、その後の休み時間に友だちに殴りかかっていくのを私は見たことがあるが,これは決して例外的な出来事ではないだろう。
徳目主義の道徳という批判はここに向けられる。徳目というのは,道徳あるいは徳を分類した場合の名前,項目のことで,正義や勇気といったものを挙げることができる。たとえば儒教の場合には仁・義・礼・智・信,キリスト教ならば信仰・希望・愛などがそれにあたる。これらはたしかに大切なものだが,その内容について深く考えてみることなしに,こういった教材(引用者注 ここでは『手品師』)によって最初から決まったものとして徳目(この教材の場合でいえば誠実)を子どもに教え込もうとするあり方が徳目主義の道徳であり,子どもたちの現実生活と接点をもつことは困難となる。

『道徳教育の可能性 その理論と実践』 中戸義雄 岡部美香編著 ナカニシヤ出版 2005 p8

この説明は非常にわかりやすいですね。
学校という環境は「徳目」で満ち溢れています。
例えば、僕は、教室にある「〇〇目標」の数を数えたことがあります。すると、学校目標・学級目標・生活目標(月目標)・生活目標(週目標)・給食目標・保健目標・学習目標と7つも見つけることができました。一体、これだけの目標を誰が覚えているというのでしょうか。教師だって覚えていないはずです。そして「見なければ忘れてしまう」ような目標にどのような効果があるのでしょうか。

これは別の章でも語ることになりますが、学校教育は基本的に「ポジティブリスト的思考」をします。これは「良いことはどんどんしよう」ということですね。「良いこと」リストに入れたいものをどんどん追加した結果、そのリストがとんでもなく長いものになっているということは、「〇〇教育(環境・人権・メディア・SDGsなど)」の氾濫を見てもわかります。

徳目の一つ一つは大切なことなのでしょう。学習指導要領に載っている「特別の教科 道徳」の徳目をざっと並べてみましょう。

⚪︎善悪の判断・自律・自由と責任
⚪︎正直・誠実
⚪︎節度・節制
⚪︎個性の伸長
⚪︎希望と勇気・努力と強い意志
⚪︎真理の探究
⚪︎親切・思いやり
⚪︎感謝
⚪︎礼儀
⚪︎友情・信頼
⚪︎相互理解
⚪︎寛容・規則の尊重
⚪︎公正・公平・社会正義
⚪︎勤労・公共の精神
⚪︎家族愛・家族生活の充実
⚪︎よりよい学校生活・集団生活の充実
⚪︎伝統と文化の尊重・国や郷土を愛する態度
⚪︎国際理解・国際親善
⚪︎生命の尊さ
⚪︎自然愛護
⚪︎感動・畏敬の念
⚪︎よりよく生きる喜び  以上 学習指導要領「特別の教科 道徳」より

どれも非常に大切な価値観です。
これらの「道徳的価値」は、道徳教育や道徳科を通して、たしかに子どもたちに伝えないといけません。しかし、先述した伊藤氏の言う通り「すべきだができない」という状況の方が、我々の生きる世界には多いのです。だから、我々は「道徳だけでは生きられない」とも言えます。そこで「倫理」なのです。

具体例を挙げたいと思います。
「廊下を走ってはいけません」というのは、学校教育ではお決まりの「規則」です。たしかに、廊下を走っては危ないです。曲がり角でぶつかれば怪我をすることもあるでしょう。童謡「おつかいありさん」ではありませんが、子どもたちはよく「頭と頭をごっつんこ」します。だから、そうなってはいけないと先生方は「廊下を走ってはいけません」とか「廊下を歩きましょう」とか言い続けるわけです。

しかし、一方で、この規則は毎日のように「破られて」しまいます。それは悪意を持って破られるというよりも、「ついつい」してしまうという感じでしょうか。授業時間の45分間に対して、休み時間は10分間です。そのわずかな休み時間を少しでも長く遊びたい子どもたちの気持ちが、「ついつい」廊下を走らせてしまうのでしょう。

さらに言えば、「先生」だって「廊下を走る」ことはよくあります。放送で「〇〇先生、お電話です。職員室まで至急お越しください」なんて呼ばれたら、歩いていられませんよね。そんな姿を子どもたちがみたら、「〇〇先生、放送で呼ばれてたよー、いそげー」なんて子どもたちは声をかけてくれます。

「規則の尊重」というのは、先ほどのも指導要領の徳目にも挙げられていました。しかし「すべきだができない」ということもある。もしくは「すべでないときもある」でしょうか。例えば、不審者がナイフを持って襲ってきたら、廊下を走らざるを得ませんね。これは極端な例かもしれませんが、子どもたちだって「いつでもどこでも」廊下を走るわけではないかもしれません。「ある程度見通しが良くて、人が少なければ走っても良い」と思ってるかもしれません。実際、我々教員が危惧している以上に「廊下の接触事故」というのは起きていないような気もしています。

この例で思い出したのは「信号のある横断歩道」についてです。「赤はとまれ」というのは、小さな頃から繰り返し言われてきたわけですけども、急いでいるときや、交通量の少ない時や、みんなが信号を無視して渡っている時などは、ついつい信号を無視してしまう大人を見かけてしまいます。これも、「規則の尊重」は大切だけど、それは「時と場合による」という解釈をしているのかもしれません。たしかに、警察官が見てたら、誰もが「赤はとまれ」を守りますよね。

道徳から「徳目主義」の胡散臭さを減らしていくというのは、「よりよく生きる喜び」の実現のためにも大切なことなのかもしれません。