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学年主任に捧げる教育〜権威を内面化してしまう教師たちの苦悩〜

今回は、権威の内面化について書きたいと思います。でも、内容はごくごく散文的な、ただの愚痴です笑 

というのも、最近、学術的な文章を意識しすぎて「わかりにくい」とか「とっつきにくい」なんて言われる機会が増えてしまったというのも関係しています。ゼミで先輩から教えてもらったのは、「自分の言いたいことを、過去の誰かに言わせろ」ということでした。つまり、「引用しなさい」ということですね。

それまでの僕の文章は、「人から聞いた言葉」を「自分の言葉」で勝手に言い換えてしまっていました。例えば、お師匠である内田樹先生のお言葉は、もう僕の中で血肉化している部分も多く、「どこまでが内田先生の知見で、どこからが僕の言葉なのか」の線引きが自分でも難しくなっているのです。でも、そこをしっかりと線引きしないと、読んでいる人は混乱してしまいます。だから、引用元をしっかりと提示するのが、学術論文のマナーなのです。

学問は鎖ですからね。自分はどこの鎖と繋がっているのかを示すことは、学問の発展という上でも大切なのです。

ただ、それを意識しすぎると、なんだか「お堅い」文章になってしまうみたいで、今日は、ただの愚痴みたいな文章を、それこそ居酒屋トークくらいの勢いで書き殴って書いてみようかなと思っております。

さて、「権威の内面化」とはなんでしょうか。これは、自分の心の中に「上司」がいるという状態をイメージしてください。あなたの行動のすべてに、いちいち「心の中の上司」が口を挟んできます。はい、なんとも嫌ですね。でも、このような状態を「内面化」と呼びます。

権威というのは、上司であったり、学年主任であったり、管理職のことです。これらの人々にも当然仕事があるので、あなたのことを常時見張っているということはありえないのですが、もし、これらの人たちの「まなざし」が部下に「内面化」されていたら、どうでしょうか。上司からしたら、なんとも「管理しやすい」状態ですね。自分が見ていなくても、勝手に部下が自分に忖度して行動を変容していく。

でも、これ特殊な話ではなくて、学校教育や家庭の子育てでは日常茶飯事なんです。「権威の内面化」とは、言い換えれば「しつけ」のことなのです。しつけって、そういうものですよね。子どもたちに「先生に見られたらどうしよう」という思いを植え付けることで、先生がいない「自習」でも、子どもたちは悪さをせずにじっと座っている。親が見ていなくても、子どもたちは親が望むような行動をするのは、親や教師の「まなざし」を内面化した子どもだからできるわけです。

権力論といえばフーコーなのですが、フーコーはこの「権力の内面化」は歴史的な過程で発生したと喝破した人です。つまり、昔は「王様の権力」というのがあって、「王様に悪さが見つかったら処刑されるけど、見つからなければ大丈夫」くらいの感覚だったとフーコーは述べます。しかし、時代が進むと、これらの権力を内面化させる装置が登場し、人は「誰かはわからないが忖度する」みたいな状態になっているそうです。パノプティコンという刑務所のシステムの話は有名ですので、ググってみてください。

さあ、ここからは上司の権威を内面化した教師の話です。

ある日のこと。休み時間に教室で遊んでいた子どもたちがいました。そのクラスには「みんな遊び」はないので、休み時間は、子どもたちが思い思いに遊んでいました。すると、その学年の学年主任がその光景を見て一喝しました。

「晴れている日の休み時間は、外に出て遊びなさい!!!」

子どもたちはびっくりして、そのまま外に遊びに行きました。その後、その学年主任は、そのクラスの先生に対して「休み時間に教室にいる子どもたちがいました。子どもたちの健康のためにも、晴れている日は外で遊ばせるように指導をしておくように」と言われました。

この先生は、それ以後、晴れている日の休み時間には「教室に残ってはいけません」と指導をすることになりました。

さて、別のある日のことです。学年主任の教室を覗いてみると、学年主任は朝の時間を使って「英語学習」をしていました。一方、自分のクラスでは、その時間は「読書タイム」をさせていました。読書が有益だと思ってさせていたのですが、学年主任の方針に合わせた方が良いのかなと思ったその先生は、翌日から「英語学習」を始めました。

こうして、その先生は「学年主任が喜びそうな教育実践」というモノサシを内面化して、教育実践を選択するようになっていったということです。めでたし、めでたし。

子どもたちの主体性を育てるというのは、日本の学校教育の喫緊の課題だとは思うのですが、その日本の学校教育を担う存在である教師の主体性が疑われてしまいますね。

こんな話があります。

「飛行機は、副操縦士が運転する方が事故率が低い」

これは、少し考えればわかる話ですけど、副操縦士には、横に上司がいますよね。だから、副操縦士自身と、横にいる上司の「二人の目」から状況を判断することができます。だから、危険や異常も察知しやすい。
一方、上司が運転している時というのは、横にいる副操縦士の立場(部下)からは、上司の間違いや違反を咎めにくいという心理的抵抗があるはずです。だから、上司「一人の目」になってしまいがちである。

このような権力関係を踏まえるならば、学年主任などの上司の立場の人間は、自身がもつ権威性について自覚的でないといけません。部下の主体性を奪っているばかりか、さまざまな危険の芽の察知まで遅れてしまうかもしれません。