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有料コミュニティへの違和感

なんだか、最近のTwitter(新X)は「お金の匂い」がプンプンしていて嫌だなという話。

有料コミュニティなんてダメだよ。
「金払う奴だけ、友だちね」みたいなことを、教育者はしてはいけません。そういう「閉塞的な空間」にいても、「俺たち、あいつらとは違うもんね」という優越感は味わえても「外側への機会」を失っていることには気づけない。
そして、この感情の底流にある「排他性」にも意識を向けないといけない。

「コンテンツを生み出した労力に見合う金銭を受け取って何が悪い」
「有料でも買いたい層がいるんだから、口出しするな」

こういうことをコミュニティ運営者は言うのだろうけど、教育は「受益者負担」で語ってはいけません。教育の受益者は「未来の社会」です。私たちが日々、教室で育てている子どもたちは「未来の社会の形成者」なのです。私たちの老後の世界を「良きもの」にしてくれるのが、子どもたちなのです。大事にしないとね。

でも、教育コンテンツを「お金を引き出せる道具」として扱うと、この辺りが歪む。

もちろん、僕だって教育書を書いて印税をもらってますよ。これは、どうなんだと言うお叱りの声があるでしょう。でもね、言わせてもらいますけど、印税なんて本当に大した額ではないですからね。これで稼ごうなんて、まあ、無理ですよ。やってみたいならやればいい。商業出版を甘く見るなってね。

教育書を出す目的は、Twitterでは届かない層に届けるためです。決してお金のためではない。お金を稼ぎたいなら、就職活動をした方がよほどいい。

本を書くと言うのは、古来から「自身の考えをまとめて書いて伝える」ですからね。「お金を稼ぐ」なんて意味合いは、村上春樹レベルの一部の作家が成しえる御技であり、それも、本が売れない時代、ほぼ成立しなくなっている。

でもね、オンラインコミュニティは多分、「お金のため」なんですよ。そうじゃないとおかしいもんね。「そうじゃない、俺たちはコミュニティの結束力を高めるために有料なんだ」と言うなら、それこそ自身も気づかない「排他性」を反省してください。そういう先生は、「俺のクラスには、俺の言うことを聞く子どもしか、いらねえよ」と同じことを宣っているわけです。

コミュニティ自体は良いと思うの。
こんなに学校現場が難しくなっているのならば、「続ける動機」が、職場である学校の外側にあるのは、悪くない。

僕だって、職場では、いろんな人から「ご指導を受けて」辛くなる時があるけど、それでも、Twitter(新X)があるから何とか心の平穏を保てる。

でも、有料はダメでしょ。

我々、教師は、「教師団(ファカルティ)」なのです。教育という重大な責務を担いっている同志なのです。

全ては子どもたちの成熟のために。

なのに、その素晴らしき知見を「有料コンテンツ」にしたらダメです。