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どうして宿題をしないといけないの?

僕は児童に宿題を課すことが嫌いです。放課後は子どもたちの自由な時間です。そんな時間に何かをさせることが許されるのは保護者だけだと思っています(習い事など)。しかし、宿題というのは学校の中にある「当たり前」の活動です。学校の中で働いていて、この「当たり前」を辞めるというのはとてもエネルギーが必要なことだと常に感じています。

宿題があるのは「当たり前」だと思っているのは保護者も同じです。だから「宿題を課しません」なんて先生が言ったものなら、保護者は不安になります。

「うちの子のクラスだけ宿題がない。これではうちの子のクラスだけ学力が下がるのではないか・・・」。

この不安を先生の説明だけで取り除くのは困難でしょう。実際に一年間、宿題を無しにして、宿題を有りにしたクラスと学力の伸びの違いでも比べられたらいいのですが、日本の教育において「実験」は拒否反応が強すぎるのでできません。だから、日本の教育は「とりあえずやってみて」「なんだか良さそう」という「実感」を持ってもらわないと「当たり前」の活動を変更することは難しいのです。

少し話はそれますが、今回の安倍総理の「全国一斉休校要請」については良かったのではないかと考えています。関係諸機関への調整を行なっていては、専門家会議の提言であった「1〜2週間が山場」の期間は過ぎてしまっていたでしょう。特に教育は「変更に弱い」です。顔色を伺っていては、何もできません。今後、様々なウイルスなどの国難が日本を襲うのであれば、今回のような前例を作る決断には一定の評価があってもいいのではと思います。

話を戻します。宿題という「当たり前」の活動に対して、疑問を持った子どもへの返答の話です。

僕は以前、こんなツイートをしています。

宿題ありきの学力形成を学校が考えているのなら、それは授業を改善しないといけないのではないか。学校でつけたい学力であるのならば、学校の中の時間だけで完結すべきではないのか。

それに個人の学力や家庭環境も様々な子どもたちに一律の宿題を課すことの意味を考えるとやはり宿題の効果は薄いのではないか。

ここまで言うと、子どもたちの疑問にも納得している自分がいます。

「そうだね!宿題なんて必要ないんだよ!」

こう言えてしまえば楽なのですが、そうもいきません。

しかし、「あなたのためになるんだよ」とか「みんなもやってるからやろうね」とか「言われたことができないと将来大人になったときに困るよ」などの強引な理由で従わせることもまた教師として取りたくない悪手であることは明白です。

一番いいのは子どもたちと「とことん話し合う」と言うことでしょう。しかし、話し合いの場を用意するのなら「宿題を無くす」というゴールももちろん用意しておかなければなりません。学校では「結論ありきの不毛な話し合い」がよく行われる悪習があります。

宿題を無くせないのならば、「内容を変更する」という方法も用意されています。学力も家庭環境も異なる子どもたちに一律の宿題内容を課すことはあまり良くないのであるのならば、それぞれがそれぞれのやりたい内容ができる宿題の内容を考えてもいいかもしれません。

学校という場は学習指導要領に則ってたくさんの学習内容が用意されています。授業時間は足りないくらいです。だから、子どもたちが自身の生活の中から課題を見つけて取り組むという活動がやりにくい。しかし、このような活動は子どもたちの学びへの意欲を育てます。ゲームでも漫画でもyoutubeでも。子どもたちの興味のあることを調べさせるという宿題はよく「自由学習」なんて名前で行われている活動でもあります。

漢字の書取りや繰り返しの計算などは授業時間内にやらせるように工夫して、宿題を無くせないのなら子どもたちが自分で決めた内容を調べてくるような宿題に変更して、できるのなら「とことん話し合って」。宿題と言う活動に「意味を持たせる工夫」をすることで、子どもたちも宿題の意味を感じられるのではないかと考えています。