めがね旦那の鍵概念
自己紹介
こんにちは。めがね旦那です。僕は公立小学校に勤めて十四年目の中堅小学校教員です。TwitterというSNSで匿名アカウント「めがね旦那」として発信しています。これまでに単著を6冊、新聞連載、大学などでの講演など、いろいろな媒体で自身の教育に関する考えを発信してきています。
突然ですが、教育というのはおもしろいですね。誰もが受けてきているだけで、誰にでも発言権があり、誰でもが教育に物申すことができます。SNSで発信していても、実に多くの方々が、様々な意見を僕に投げかけてくれます。「教育に正解はない」という言葉がありますが、まさにその通りで、「先生が子供を叱ることはいけない」という意見にしても、それに対して「私は過去、先生に叱られたおかげで立ち直ることができた」という反論が来たりもします。どちらにも説得力があり、算数のように明確な答えが出せそうにはありません。
教育という言葉
しかも、今、「教育」という言葉を普通に使っていますが、ここまでの文脈でいうと「学校教育」という方が正しいのかもしれません。つまり、教育というのは「学校以外」でも行われています。「家庭教育」、「社員教育」、「生涯教育」など「教育」は特段「学校だけの特権」では無さそうです。しかし、ついつい教育は「学校だけの特権」として扱われがちです。我々は何かを学ぶときには「学校」を想起しがちですし、学校に行けない(行かない)子どもを「不登校」と呼んで社会問題化したりもします。教育が普遍的な営みであるならば、学校へ行かなくても、他のどこでだって教育は受けられるはずですが、特に日本においては「学校教育」の比重が重いのではないかなと思ったりもします。オーストリアの哲学者であり、プエルトリコやメキシコでも活躍し『脱学校の社会』という書籍で有名なイバン・イリッチは、その著書で「脱学校」を唱えて「学校は教育を独占してきた」と告発しています。
鍵概念について
そんな風に教育についてあれやこれやと考えている僕なのですが、今回のテーマは「鍵概念」です。「鍵概念」とは、哲学の世界ではよく見られるのですが、哲学者が自身の新規な哲学を説明するために新たに作り出した「概念(考え方)」を表す「言葉」のことです。
ミシェル・フーコーの<規律訓練>
例えば、近代の社会における権力構造を歴史から暴き出した、歴史家であり哲学者でもあるミシェル・フーコーは<規律訓練型権力>という鍵概念で有名です。これは、王様がいた時代には「権力による監視」が直接的でわかりやすかったのに対して(バレたら死刑、バレなきゃお咎めなし)、近代では「見られているかもしれない」と個人の内面に「監視の目」を持たせて、個人に個人を監視させるような構造があると指摘した概念です。つまり、権力を王様という権力者から、それぞれの内面に移行させたということです。学校の教室を思い浮かべてもらえればわかりやすいでしょうか。教室では、教師のいる教壇に向かって子供達の机は綺麗に並べられています。教壇に立つと、子供たち一人一人の様子が手に取るようにわかります。一方、子供達同士が対話するには、わざわざ身体の向きを変えないといけません。さらに、対話は自由ではなくて「教師の許可」が必要です。フーコーの<規律訓練型権力>という概念を使うと、こういう教室の構造の一つ一つが、子供たちの内面に「勝手なことはしてはいけません」という「(教師の)権力の構造」を内面化しているという指摘ができるわけです。
レヴィナスの<顔>
もう一つ例を挙げてみましょう。エマニュエル・レヴィナスという哲学者は<顔>という概念を提出します。これは、「他者論」という哲学で有名なレヴィナスの概念をよく表している言葉です。そもそも「他者」とは何でしょうか。これは、「自分以外の人」という意味以上の意味を含みます。「他者」はあなたに理解されることを阻みます。なぜならば、理解とは「自分のモノサシで勝手に納得する」ということだからです。それは時に暴力的であるとさえ言えます。
例えば、「あの子は忘れ物が多いから怠け者である」という教師による理解は、ある意味で暴力的です。忘れ物が多いその子の家庭は、片親家庭でしかも親が仕事で留守がちであり、家の中が散らかっていたとします。そんな状況で「忘れ物をするな」というのは、子供にとっては無茶な要求でしょう。しかし、教師は子供たちすべての家庭環境をしっかりと把握できているわけではないため、ついつい「自分が見えている範囲」で理解しがちです。
一方「忘れ物をしないあの子はしっかりしている」という理解もやはり暴力的になるかもしれません。その子が忘れ物をしない理由は「家庭で親が毎日丁寧に声掛けをしている」からであり、その子自身の特性としては「むしろ忘れっぽい」ということだってあり得るからです。
このように言われてしまうと、教師としては手詰まりになってしまうので、あまり「他者」という考えに囚われすぎてもいけないのですが、一方で、頭の片隅に「他者としての子ども」を置いておくだけで、子どもとの関わり方が変わるかもしれません。
さて、そんな「他者」を表す概念としての<顔>は、単なる「身体の一部分」ではありません。人の顔は、もちろん全員異なります。つまり、<顔>は人それぞれに固有な部分です。そして、それは我々の理解に回収することができません。言葉にすることもできないのです。顔は顔であり、それは言葉や理解を超えて直接的に私に訴えてくるのです。
廊下を走っている子ども
例えば、廊下を走っていた子どもを注意する場面を思い浮かべてみましょう。当然、廊下は走ってはいけないので、その子は注意をされても仕方ありません。先生によっては厳しく叱ることもあるでしょう。しかし、そのような場面でも、教師がその子の<顔>をじっと見ると、いろいろな感情が教師に「流れ込んでくる」ような感覚になることがあります。すると、「ガツンと注意」という教師側の気持ちも少し和らいで来ないでしょうか。さらに、そこから話を詳しく聞いてみると、「運動場で怪我をした子」がいて、それを保健室へ知らせるために、その子は走っていたというではありませんか。それでも「廊下を走るのはいけないよ。あなたが怪我をしてしまうでしょう。」という注意もあるかもしれません。「規則は絶対である」という言い分もあるでしょう。でも、教育とは「規則の中だけでは語れない」部分もあるのではないでしょうか。「人と人の関わり」である以上、「人情的に、それは許してあげたい」という部分だってあるはずです。
そういう「人と人としての関わり」みたいな考え方を、僕はレヴィナスの<顔>という概念から受け取っています。
フーコーの<規律訓練型権力>にしろ、レヴィナスの<顔>にしろ、それらの概念は、その哲学者の哲学を語る上では欠かせない概念であることから「鍵概念」と呼ばれています。そして「鍵概念」は、言葉以上の意味を内包しており、偉大なる哲学者のみなさんはその概念を、たくさんの言葉で語ろうとしてきたのです。(ちなみに、鍵概念は< >で挟んで表現されることが多いです。)
教育だって哲学です
ところで、教育も哲学だとは思いませんか。教師一人一人には、その行動を選択させた「教育哲学」がたしかにあるはずです。そうでなければ、教師は自身の教育実践をいちいち「教育辞典」みたいなもので調べないといけないことになります。研究授業のように、前もって内容がわかっているような教育実践とは異なり、日々の教育実践というのは「いま、ここ」での即断即決が求められます。そうなると、やはり教師には「行動指針」が必要であり、それを「教育哲学」と呼んでみたいと思うわけです。そして、教師一人一人が「教育哲学者」であるならば、やはりそれは「鍵概念」として< >で挟んで言語化できる概念がたくさんあるはずです。多くの先生方は忙しくて、なかなか自分自身の教育哲学と向き合う機会というのは無いかもしれません。そして、あったとしても、それらを「概念」として言語化するのは簡単なことではないかもしれません。だから、まずは本書を読んでみて、一教員である「めがね旦那の教育哲学における鍵概念」を知り、翻って自身の教育哲学を振り返るということをしてみてはいかがでしょうか。僕の教育哲学には、同意できる部分と同意できない部分があると思います。そんなときは、むしろ「同意できない部分」に目を向けて、「自分なら、それはこうする」という言語化に挑戦してみてください。そういうことを繰り返していけば、あなたの教育実践は以前よりも「深く・厚く」なっていくはずです。
思考というのは流れて、いずれ忘れられていきます。だからこそ、言葉として残しておくのです。言葉にしておけば、記憶に「ストック」しておくことができます。おそらく、過去の偉大な教育実践家のみなさんもそうして自身の教育哲学をストックしていたからこそ、今もそれらの実践家の言葉が残って、我々に教えてくれているのでしょう、
この本を読んで、自身の実践を、いつもとは異なる視点で振り返ることができる教師が増えてくれることを願っています。
それでは、あとがきでお会いしましょう。