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学校の本質は工場

炎上覚悟で言います

【学校の本質は工場】です

均質の子どもを6年間という
レーンに乗せて製造する工場

異質とされるものは排除され
同じような価値観の製品をつくる工場

社会が求める水準の人間を作り上げる
ただの工事
それが学校の本質

賛否両論受け付けます
この本質を見ずに教育は語れない

学校における本質的な問題点について

①教師の中心性
②テストのための勉強
③成功・完成主義

の3点からつぶやきます

①教師の中心性

教室という空間は40個の机が
前方の黒板と先生の方を向いている
黒板の前に立つとよくわかるが
この配置は教師が
誰が授業に集中していないかを
監視するためには最も適した配置なのだ
つまり教室においては
教師と黒板が絶対であり
その他の学びは
認めていない構造だということ

教師の中心性は
子どもたちの挙手からも見られる
先生からの質問に「ハイっハイっ」と
アピールして教師に当てられるのを
待つ子どもたち
当てられた1人は
優越感の中で質問に答える
教師は挙手をさせることで理解度を測る
子どもからすれば
「理解できてない」が一目瞭然のシステム

教室での学びの多くは
「知ってる教師」と「知らざる子ども」
において行われる

本来のコミュニケーションとは

「相手が知らない情報を伝え、自分が知らない情報を聞く」ことの上に成り立つ

「これはなに?」→「りんご」は
コミュニケーションという
その舞台の外側の行為なのだ


②テストのための勉強
「どうして勉強をしなくてはいけないの?」
「将来の可能性を拡げるためためだよ」

誰もが一度は見たことがある問答である

これは間違いだと
否定できる人は少ないだろう

なぜなら
6年生になれば私立中学の入試

公立中学へ行っても
中3になれば公立高校の入試がある

そのようなシステムが
この社会に存在する以上
先ほどの
「将来の可能性を拡げるためだよ」
という考え方には強い説得力が生まれる

事実として偏差値が高い学校を卒業した方が就職の幅は広い

では、学校とは
より高いレベルの学校へと進学するためにあるのだろうか
それでは学習塾と変わらない

しかし学習塾と変わらないことを
否定することはなかなか難しい

学校での知識というのは
学校以外で使われることが極端に少ない
学校での学びは生活に活きにくい
そのいい例が
【テスト】である
生活からかけ離れたところで
先生が問題を出す
学校ではテストで
いい点数を取ることが求められている

テストがあることで
学ぶことの意味は生活からかけ離れる

学校で学んだ力は
【シャーレの中で純粋培養された力」
であり
テストという培養液が切れれば
その力は死滅する

力とは活かす場があって
初めて「活きた力」になる
しかし
学校の学びの多くは
テストでしか活きないので
力として付きにくい

しかし学校では
力が付いたどうかを確認するために
テストが行われる
そのテストでいい点数を取ることが
「将来の可能性を拡げる」ことになる

ひらがなや漢字が活きた力になるのは
それを活かす場があるから

テストでしか活きない力は
子どもたちに学びへの
歪んだ認識を与えてしまっている

③成功・完成主義
学校に根付いている感覚だ
つまり学校の教育活動は
【成功・完成】が
目標として捉えられている

悪いことではない
問題なのは先生側の
「がんばればできるという考え」である
「できないのは、その子がやらないから」
この先生の意識が強烈な圧力となって
子どもにのしかかる

絵の苦手な子が
無理矢理に筆を持たされ
どうしても描きたくない絵を描かされる

こんな経験を繰り返すうちに
子どもたちは自分の心を守るために
【無気力を学ぶ】のではないか

この学びのすれ違いが
様々な教育活動で起こっている

学校の教育活動は
細かく設定されており
一つでも遅れると他のすべての活動に
影響を及ぼす

だから先生は何としても
【成功・完成】させたい
たとえ子どもたちの
休み時間や放課後の時間を奪ってまでも

成功・完成主義は
子どもたちに
学びにおける過程よりも
結果の方が大事だと伝えている