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「休憩時間」って言葉を知ってますか?


学校の非常識

 学校の常識は社会の非常識なんてよく言われますね。これは細かい制服規定などの校則に対してよく使われるとは思うのですが、それ以外にも学校と社会の常識のズレはあります。

 それが「休憩時間無視」です。そうなんです。学校で働く教師だって労働者なのですけど、なぜか教師は「休憩時間が無いこと」になっている。本校も漏れなく「休憩時間の概念」がありません。これって、本当に変なことだと思うのです。労働基準法違反ですからね。でも、誰も指摘しない。本校でもそのことに気がついているのは僕くらいじゃないですかね。みんな、休憩しないで働き続けている。これは異常なことであると、せめて管理職くらいは把握しておいてほしいのですが、おそらく管理職も「本校職員は、休憩時間に自主的に労働している」と解釈しているのでしょう。そうでないと、必死に止めにきますよね。「たのむ、働かないでくれ!職員に休憩時間を取得させていないとなったら、管理職として問題があることになってしまう」。こんな必死な管理職を僕は見たことも聞いたこともない。というか、休憩時間に会議や研修を設定しているのも問題なのですけど、それが問題であると思っている人もおそらくいない。

自分を大事にしない人は子どもを大事にできない

 こんな教員ばかりだから、子どもたちの休み時間にも「授業を延長する」し、「残っている課題を休み時間にさせる」なんてことをするのでしょう。そうして、子どもたちが大人になった時に「休憩時間に無頓着な大人」ができあがってしまう。子どもたちは、未来の社会の形成者なのです。間違った常識の中で育ててはいけないと思うのですが、どうもこのあたりの意識に学校は無頓着を決め込んでいるようです。

 そんな僕は、必死になって休憩時間を取得しています。もちろん、研修や会議があれば参加しますよ。(今、休憩時間中なんだけどな)くらいは思っていますけど、それでも嫌々ながら参加しています。でも、そういう用事が無ければ全力で休憩時間を取得します。なんなら、前日に休憩時間が取得できなければ、その分さえ取得する勢いです。こういう労働者の権利を守る意識は大切なのです。

 繰り返しますけど、教師は自分のことを大事にしないことが当たり前になっています。休憩時間を無視されても、長時間労働で酷使されても、じっと耐え忍ぶ。でも、そういう人間は「周りの人も」大事にできないということをついつい忘れてしまっている。しまいには、「俺はこんなに頑張っているのに、君たちはなんでがんばれないんだ」という無意識の感情がイライラとなって表出してしまう。こんなの教育者として失格ですよ。逆に、自分が休憩時間をしっかりと取得しているのに、子どもたちには与えないということはあり得ません。そんな人がいたら、かなり邪悪な人間だと思います。つまり、人は自分に厳しくした場合は、人にも同じように厳しくしてしまいがちですし、自分に優しい人間は、人にも同じように優しくすることができるという、そういう散文的な話なのです。

 だから、子どもたちに優しくする前に、自分に優しくしないといけません。そして、強調しますけど、休憩時間はご褒美でもなんでもありません。労働者の権利であり、法律で守られていることなのです。残業と同じように、休憩時間を取得させないことは(管理職側の)違法行為であるということです。そんなものに加担する必要はありません。

ゆっくり本でも読みませんか

 さて、僕は休憩時間に何をしているかと言いますと、ほとんどの時間は「読書」にあてています。でも、たまには身体を動かしたいので、同僚とキャッチボールをすることもあります。こういうコミュニケーションを日頃から取っておくと、仕事の話も円滑に進みます。まあ、そんな打算的な理由でキャッチボールなんてしませんけど。でも、いくら忙しくても休憩時間を意識的に取れる、「自分に優しい労働者」でありたいとは願っています。