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寺子屋と学校の比較

1872年(明治5年)に公布された「学制」をもって始まった日本の近代学校教育ですが、それまでにも日本には世界に誇れる教育機関がありました。それが「寺子屋」です。これは、武士階級を対象にした「藩校」とは異なり、庶民を対象にした教育施設であり、江戸時代における日本の世界的にも類を見ない識字率の高さを支えていたともいえるでしょう。

実際、明治になって学制が公布されて近代学校教育が始まったあとにも寺子屋は存続していたという資料もあり、寺子屋が、制度的なものというよりも、住民の必要感から求められていたことがわかります。

さて、今回はそんな寺子屋と、現在まで続く学校を比較してみたいと思います。私たちの考える「当たり前」というのを、歴史的に考察してみる事で、「当たり前」が「当たり前になる過程」が見えてきます。そして、それは、とても長く困難であった道のりだということに気づく事で、翻って、それは現代の教育を考えるためのモノサシになるのではないかと、期待しています。

今回も森重雄著『モダンのアンスタンス 教育のアルケオロジー』ハーベスト社1993を参考にしていきます。

森は明治24年(1891年)の杉浦重剛らによる寺子屋の実態調査である『維新前東京市私立小学校教育法及維持法取調書』(以下、『取調書』)をもとに寺子屋と学校を比較しています。

『取調書』の冒頭部分には、維新後にそれまで使っていた教育に関する言葉の多くが変更されたことが述べられています。例えば、『取調書』の名称にある「私立小学校」とは「寺子屋」のことなのです。他にも、「弟子・門人」が「生徒」に変化したり、「稽古」が「授業」、「手習」が「習字」、「算盤」が「算術」、「針仕事」が「裁縫」などが例として挙げられています。これらの変化後の言葉を「雅語(日常生活では使わない上品な言葉)」と表現しているあたりにも、『取調書』の執筆者の抱く戸惑いを感じられます。

このように寺子屋から学校への変化は、単なる制度の変化以上のものをもたらしたと森は分析しており、それを森は「日常行動(プラティック)」の変化と捉え、それを以下の3点に分けて分析しています。

①時間的に拘束された日常行動
②姿勢的な日常行動
③空間的な日常行動

「①時間的に拘束された日常行動」とは、それまでは不定時法という時間の長さを採用していた日本に「時計」を導入することによって生まれた日常行動を示します。

少し脱線すると、不定時法とは、江戸時代に採用されていた時間の測り方で、昼と夜を6等分して、それを子の刻、丑の刻といった12辰刻で表すものです。しかし、これは、季節や緯度経度によっても長さが異なるので、季節や場所によって一刻(約30分)が変化するという時間感覚でした。
これらの詳細は以下の国文学研究資料館ホームページより

そんな不定時法に慣れ親しんできた中で、学校に西洋文化である「時計」が導入されるわけです。不定時法に慣れ親しんだといっても、現代の我々の感覚からすれば、当時の住民の時間感覚は「ルーズ」であったことが指摘されています。例えば、寺子屋の門人は、朝、三々五々(それぞれがバラバラ)に集まってきていたそうです。さらに、終わりの時間も、一応は八つ時(午後2時半ごろ)と決まってはいたそうですが、昼食のため帰宅したら、そのまま帰ってこないという「早仕舞」を決め込んむ門人も多かったそうです。

現代の学校は、チャイムと時間割によって厳格に(パンクチュアルに)行動が規定されていることを考えれば、当時の寺子屋に慣れ親しんでいた人たちがいかにルーズであったのかに驚かされますね。そして、逆もまた然りなのでしょう。当時の人たちからすれば、どうしてこんなにセカセカと時間に合わせて動かないといけないのかと、学校に対して違和感を持っていたはずです。

「②姿勢的な日常行動」とは、端的に言えば「椅子に座る」ということが、当時は「非日常」であったということです。それについて森は「椅子に座ることじたいが、往時の日常には稀な近代西洋的身体の姿勢プラティックであった」と分析しています(さらに言えば、現在の当たり前である「立礼」というのも、椅子が導入されたことにより生まれた日常行動です)。

というのも、当時は、家に椅子などは無かった時代です。だから、各自治体は学校に置く「椅子」や「机」を製作させる場合について、その図と寸法を書面にして示さなければ、製作者たちが、それが「どんなもの」で「何に使うのか」をイメージできなかったのです。

「③空間的な日常行動」とは、上記①と②が合わさった、現代の学校の「教室における授業」そのものへの対応のことです。

つまり、それまで寺子屋では、門人やら弟子がそれぞれの段階にあった個別の学習内容を、それぞれが行い、それを師匠に個別に見てもらい指導してもらうという方式でした。その空間には「前」という概念がありません。これは、現代の教室に慣れ親しんでいる私たちには理解し難いことです。

つまり、現代の教室において「前をむきなさい」という指示は、すべての子どもたちにほぼ混乱なく通じるのに対して、寺子屋においては「どこが前なのか、わからない」ということが起こりえます。門人や弟子は、それぞれの方向に向いて、それぞれの課題をしているわけです。そこには「前」という共通了解は無いのです。

例えば、寺子屋では、課題が終わったり、課題に疲れた門人や弟子は密かに絵を写したり、遊んだりすることが許容されていました。これは、身体の向きが定まっていないという空間の構造上、師匠が一望俯瞰して門人や弟子の行動が把握することができないことに起因しています。しかし、特段、これが現代でいう「学級の荒れ」とは認識されていなかった。これをルーズと考えるか、寛容と考えるかは、時代の価値観によるのでしょう。

ちなみに、現代の教室の机配置における、教師から児童生徒の行動を一望俯瞰的に監視できるシステムを、ミシェル・フーコーはベンサムの考案した刑務所であるパノプティコンを例にとって鮮やかに説明しています。フーコーについては、過去に書いた記事をご覧ください。

これらを総括して森は、以下のように述べています。

これを逆から言えば、こんにち一斉授業として総括される「教則」すなわち「授業のプラティック」は、そのような空間的に私的な「遊び」を装置的に保証しない。<教育>は、私性(プライベート)を排除するという意味で公的な、まったく新しい、いささか気詰まりなプラティックから組み立てられている。

『モダンのアンスタンス 教育のアルケオロジー』 森重雄著 ハーベスト社 1993 p83

現代の私たちからすれば「ルーズ」に見える寺子屋も、当時の人たちからすれば「気詰まり」に見える学校も、いずれも知った上で、さて教育はどのような形が望ましいのかを議論するには必要な前提条件であるなと感じます。

参考文献
『モダンのアンスタンス 教育のアルケオロジー』 森重雄著 ハーベスト社 1993