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教員集団の同質性

さて、ここからは「大卒」の中でも、さらに教員集団の同質性を見ていきたいと思います。学校の先生という職業に着くためには「大卒(短大卒)」という学歴が必要です。さらに、その「大卒」の中でも「教育学部」へ進学したいと思う層は、「学校で働きたい」とか「教育に関心がある」という思いもあるので、「学校文化への順応性が高い」とも言えそうです。つまり、「学校で良い思いをしてきた元子供」ということです。「学校文化」で苦しい思いをしてきた元子供は、自分の就職を決める学部選択の際に「教育学部」は選択しないでしょう。

そして、進学して同質性の高い集団で学んだ後、学校へ採用されたあとには、かなりの程度の「価値観の濃縮」をされている集団の中で働くことになります。そこでは、学校文化などを働きながら身につけていくことになるのですが、その学校文化でさえ「大卒」かつ「教育学部」という集団が作り上げてきた、普遍的というには程遠い文化になっていることが多いのです。これは、現在話題になっている「ブラック校則」を見れば一目瞭然ですね。「どうして、そんな変な校則があるの」という社会一般の価値観は、学校の中の人には理解されにくいみたいです。

例えば、一時期話題になった「組体操」や、現在も各校で行われている「二分一成人式」などの「問題含みの教育実践」についての、学校側の「おかしな見解」について、教育社会学社の内田良氏は、それを「つきもの論」として、以下のように述べています。

こうした類の主張を、「怪我はつきもの」から取って、「つきもの論」とよびたい。
「つきもの論」が登場するのは、スポーツ事故に限らない。「2分の1成人式」(小学4年生が10歳になったその節目を祝う学校行事)に対しても同様の主張はたくさんあった。つまり、「どんな行事や授業もそれを不満に思う子どもはいる」「子どもの嫌な思いに耳を貸していたら、学校の行事も授業も何もできなくなる」と。「教育に不満はつきもの」という意味で、典型的な「つきもの論」である。

『教育という病』 内田良著 光文社新書 2015 p19

学校の先生は、子どもたちの「傷」に対して、過小評価をしがちです。「死ぬ以外はカスリ傷」と言い放つ教師は現場にたくさんいるでしょう。しかし、そうした「傷」が蓄積されて、ある日、突然、学校に通えなくなるような子どもたちもたくさんいます。

「つきもの論」という言葉の持つ暴力性について、内田氏は以下のように続けます。

「つきもの論」には、「あらゆる活動において、事故や不満は必ずついてくるものだから、そんなことにいちいち配慮なんてしていられない」という態度がみられる。そこには、すべての問いを一蹴し、相手を黙らせる力がある。それゆえ、インターネットにおける教育談義だけでなく、学校現場におけるコニュニケーションにおいても、「つきもの論」は多用されている。
しかしながら、考えてみると、「つきもの論」は、「どれだけ怪我をしてもよい」「どれだけ不満があってもよい」と同義である。「つきもの」なのだからと諦めるしかないということは、どれだけ「つきもの」があっても諦めるしかないということである。
はたして「つきもの論」は、「どれだけ事故があっても、配慮しなくてもよいのか」といった反論にどう応えるのだろうか。まさか、「大いにけっこう。いくらでも事故をすればよい」とまで開き直ることはないだろう。

同書 p19

この内田氏の議論からも、学校現場の同質性が、「おかしな文化」を生み出している傾向を読み取ることは可能でしょう。

このように、教員集団というのは社会全体で見ると「かなり偏った属性」をもつ同質性の高い集団であることがわかるのですが、一方で、そのような学校に通うことになる子供たちの属性は様々です。さらに、その子供たちの保護者の半数は(統計学的データから考えれば)「非大卒」なのです。

これも具体例で見ていきましょう。例えば、「宿題は家でするものだ。」という教師の価値観は自身の生育歴を反映しているかもしれません。つまり、教師自身が「大卒」家庭で育ち、自身が子供のときには、家庭で宿題をしており、宿題で困ったら保護者から教えてもらったという経験が、今の価値観を形成しているとします。すると、「宿題を家でしてこない子供」というのは「怠慢」に感じることでしょう。なぜなら「自分はそうではない」からです。人には、それぞれ「価値観のモノサシ」がありますが、それは「自分の経験」によって出来上がっていることが多いのです。さらに、この価値観のモノサシは、同質性の高い集団の中でエコーチェンバーのように増幅し強化されていくことさえあります。教員の「大卒家庭一般」の価値観は、学校という狭い空間の中で、世代の半数もいる「非大卒」とは分かり合えないような価値観を形成しているのかもしれません。