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『困難な教育』 まえがき

まえがき

 この度は、『困難な教育』をお買い上げいただき、ありがとうございます。
 まずはこの本の執筆の経緯からお話しさせてください。この本は、内田樹先生のご著書である『困難な成熟』(内田樹著 夜間飛行 2015)で学んだことを、教育の文脈で書いてみたいと僕が思って書いた原稿が元になっています。その原稿がある程度の量になったので、学事出版さんに持ち込んでみたところ、「出版しましょう」という話になったのです。

 僕にとっての執筆は「思考の整理」という意味合いが強いです。本を読んで感じたことや考えたことというのは、その時点では「不定形」なもので、形を持たず、ふわふわしていて、別のことを考えている間に霧散してしまうようなイメージです。そのままではどんどん消えてなくなってしまう「思考」を、整理して固めないと頭に残らないのです。だから、僕にとっての執筆はチューブから出された「木工用ボンド」なのです。グニュグニュと出てきたボンドは、はじめは可塑性がありますが、次第に空気に触れて固まっていきます。そうやって、モヤモヤ考えていた可塑的な思考が、固まったボンドのような思考になれば、別のある機会でも、その思考を容易に引き出すことができるのです。

 ただ、文書を書くという作業は簡単にはできません。それなりに認知的負荷がかかる作業ですので、僕だっていつでもどこでも書いているわけではないのです。「この思考はまとめておかないといけない」という直感があって初めて書けるわけなのです。だから、そういう僕の直感が働くきっかけになった内田先生の『困難な成熟』もぜひ読んで欲しいと思います。

 さて、この本の内容は「教育ってホントに難しいよね・・」ということを書いている本です。それは僕自身が日々感じていることです。でも、そうやって悩みながら教育に向き合うという姿勢を持っている先生は、その時点でかなり優れているのではないかとも思っています。

 「教育には正解がない」という言葉はかなり流布されていますが、これはすべての教育実践を相対化して「なんでもいいや」としてしまうようなものではないと考えています。教育には「よくわからない他者」としての「子ども」が存在しています。この「他者としての子ども」に対して、どのように向き合っていったらいいのかという、教師が持つべき「倫理」みたいなことを、僕は常に考えています。(「他者」という概念は、内田樹先生のお師匠様であるユダヤ人哲学者であるエマニュエル・レヴィナス先生の鍵概念です。)

 「他者としての子ども」を尊重せずに、教師自身の世界に引きずりこんでしまうことには「暴力性」が伴います。例えば、繰り下がりの引き算ができないからといって、休み時間も放課後も延々と計算問題をさせることの暴力性はイメージしやすいかなと思います。教室において、教師という存在には「権威」が付帯しています。権威に逆らうことは、かなり難しいです。弱者である子どもは、権威者である教師の「無自覚の暴力」を受け続けている事例はたくさんあります。
 しかし一方で、「繰り下がりの引き算」が「できないまま」という子どもの状態を放置しておけない教師の気持ちも、また痛いほどわかるのです。算数科は「積み重ねていく学問」です。だから「積み残し」は、後の学習に大きな影を落としてしまいます。

 僕はそれらの葛藤から「指導計画の見直し」を迫られることになり「算数科の授業における一斉指導の配分を減らして、その分を個別指導の時間にする」という方向性を見出しました。

 ドイツ人哲学者ヘーゲルの「弁証法」という考え方があります。対立する二つの考えを闘争させることで、別の新しい考えが生まれるという考え方です。葛藤状態にある教師には、常に「弁証法的な思考」が求められているのです。
 現状の学校教育にはたくさんの矛盾が存在しています。

 「子どもたちの主体性」と「学級内の秩序と規律」
 「学力向上」と「自由な学び」
 「厳しい教師」と「甘えられる教師」

 これらの矛盾を抱えながらも、常に「その場での最適解」を求められ続けるという過酷な任務を我々は担っているのです。
 それでも、何とか考え抜いて、最適解に辿り着けたとしても、そこには「他者としての子ども」が立ちはだかっています。彼ら彼女らは、我々の最適解を簡単に崩してきます。ここが教育実践の最難関なのです。教師一人の自己完結では決して終わらない。でも、見方を変えれば「他者としての子ども」がいるおかげで、教師は「自己完結」という「孤独な輪」に閉じこもることが許されないのです。「他者としての子ども」は「阻害要因」にも見えますが、実は「無限に開かれた可能性」でもあったのです。
 「他者としての子ども」に対して「暴力的」にならず、かつ、邪魔だからといって「排除」することもなく、教育実践が、教師の「思考実験」のような一人相撲にならないためには、どのような「倫理」が求められるのか。そんなことを本一冊分、一緒に考えていけたらと思っています。

 それでは、あとがきでお会いしましょう。