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趣味は役に立つのかという愚問

 雑食でとにかく何でも読むタイプなので、小説も国内、海外問わず読んできた。読んでは忘れる。どんな話だったかきれいさっぱり、忘れ去ってたりする。それなら読む意味あるのか、と言われそうだが、そもそも本を読むことに意味や価値を求めて読んでるわけでもなかったりする。なんか楽しいから読む。

 だから、実はビジネス界隈でよく言われる本を読む行為自体を役に立つ、という文脈で語るのは違和感を感じたりもする。もちろん結果的に色んな役に立つとは思うんだけど、役に立つかどうかと言う見返りが行動の動機になると言う考え方自体にさもしいものを感じるからなんだろうな。

 そう言う人って役に立たない=無駄、無駄=悪、生産性高い俺カッケー、みたいなのが透けて見えるから好きじゃない。役に立つ、立たないだけが人や物や体験の価値ではないと思うし役に立たない物事を無駄だと切り捨てるのは簡単だけど、それを無駄というのであれば、無駄には無駄の価値があるよね、と言いたいし、そもそも何であれそこに価値を見出せるかどうかは自分次第だよね、と思ったりもする。

 まぁ、自分にとって本を読む、というかコンテンツを楽しむことは趣味、なんだと思う。趣味って僕の中での定義は、「他人からしたら無駄の塊かもしれないけれど対価を求めずに楽しめること」だと思っているので、趣味に対してそれ意味あるの?という問いは、問いとして成立しない愚問だ。サーフィンが好きな友人に波乗りって意味あるの?と聞くこと自体に意味がないのと同じで。(そう言えば何かというとすぐそれ儲かるの?って口癖になってる人いたなぁ。どうだろう、儲かるかはわかんないって答えてたけど。)

 例えば友達に対価を求めます?本当の友人には別に見返りなんて求めないよね。役に立つ、立たないといった利害とは別の価値で繋がっているのが友人だと思うのよね。で、結果的に友人に助けられることが多いように、趣味も長じてくると、そこから得られるものが多いということなんだろうな。

 本を読むと言うのが必要以上に高尚なことのように思われてる節もあるよね。本を読む=お勉強、お勉強=偉い、みたいな。逆のパターンはマンガで、世間からは不当にマイナスのイメージを抱かれている気がする。実際本を読むなんて大したことではなくて、ただ面白いから読む、で良いだけの行為だと思うし、小説も漫画もビジネス書も、なんであれそこに貴賎の差はない気がするんだけど。自分の好き、嫌いって好みの差はあるだろうけどね。

 まぁ少なくとも何かの役に立つ、立たないというのが先にたって、行動の動機になっているような人は総じてつまらない。役に立つか、立たないかではなく、やりたいかどうかが動機の源泉であるべきだし、なるべく多くの行動がやりたいかどうかに基づいていた方がそれだけ楽しい気がする。

 落合陽一はワーク・アズ・ライフって言ってた *1けど、仕事も基本的にはやりたいかどうかを軸にした方が楽しい。そこがしっかりしてると、短期的にやりたくないこととか、しんどいことがあっても別に気にもならないから。そこがぶれなければやりたいことして楽しくて給料も貰えるなんて有難い話やでって感じになるので。

 本当は池澤夏樹の『世界文学を読みほどく』*2を読んでみたら面白いフレーズがたくさんあって、世の中に溢れてる「ものがたり」の力ってすごいよねーとか、でも一方でわかりやすいストーリーとしての「ものがたり」って危険な側面もあるよねー、とか言う話を書きたかったんだけど、話が逸れすぎたのでそれはまた次の機会に。。。

連想文献

落合陽一はワーク・アズ・ライフって言ってた *1

ワークアズライフとして考えるとき、バランスや均衡を求めるものはなんだろうか。「ワークとライフ」の対比で捉えるのではなく、「報酬とストレス」という捉え方のほうが今の働き方を象徴している。働く時間、休み時間という捉え方より、ストレスのかかることとかからないことのバランスのほうが重要だ。
P.33

 ストレスを感じるか、感じないかで捉えることのほうが重要かもというお話。自分が何にストレスを感じ、何に喜びを見出しているのか、自分の嗜好、志向、思考にどれだけ自覚的でいられるか。

 別の言い方としては自分の報酬系を知れ、という言い方でも語られている。何に喜びを見出すのか。自分が楽しいと思うのはどういったこと、状況なのか。全てのストレスから開放されることを目指す必要はなくて、報酬を得るための過程で多少のストレスは避けられないこともある。
ただ、自覚できているかどうかよね。

 この感覚ってすごく共感できて、努力とか頑張るとかすぐ言う人たちの限界ってあると思うんだよね。その人にとって、それが努力であったり、頑張ったりすることである以上、同じ行為が楽しい人たちには絶対に敵わない。

 だからこそ、努力を努力と思わずにやれる方法だったり、領域を見つけることってすごく大切だと思うのよね。

池澤夏樹の『世界文学を読みほどく』*2

 個々の作品を歴史っていう大きな「ものがたり」の中に位置付けていく、いわゆる文学史的なものって実際作品を読む前に影響されたくないし、わかった気にもなりたくなかったので距離をとっていたんだよね。でもそろそろ、いいかなと思って手にとってみたら、結構新鮮だったので、いつかこれをネタに書いてみようと思ったのでした。

編集後記(公開後の反省)

 寄せられた感想をもとに反省してみるコーナー。別記事にするとわかりづらくなるし、公開後にアップデートしていく方が今っぽい気もするし。

 「自分がバンドやるのは、ただ楽しいからなんだけど、これ、一時仕事になったことがあったんだが、楽しくなくなっちゃったんだよね。それは「生産」を求められたからだと思う」と言うコメント。ただ好だから、やる趣味だったものが仕事になると楽しいだけじゃ済まなくなってきて、みたいな変化なんだろうな、と。好を仕事にするって実際はめちゃくちゃ難しいですよね、と。①好きなものを仕事にするよりも、②仕事を好きになっちゃう方が安定する気がするけど、その場合、①と②の好きは本当に同じ好きなのか、とか考えたくなりました。

 「なんだかんだで芸は身を助ける、趣味は役に立つのでは?」というご意見。これに関しては、僕も同意。趣味が役に立たない、と言っているつもりはなくて、むしろ趣味を通じて結果として得られるものはたくさんあると思うんです。そこは否定しないんですけど、結果的に得られるものを手に入れることが目的化したり、それが動機になると僕の定義では趣味じゃないんですよね。僕にとっては友人も趣味も対価を求める対象じゃないんですけど、だからこそ結果的にはとても多くのことを得られている気がするのです。

 どちらかと言うと、対価を求めずに夢中になれること、自分の「好き」や「やりたい」に従って行動することから得られるものはとても大きい気がする、と言うこと。大人になってもそう言う趣味がある人は面白いよな、と思うこと、などが伝わればよかったのだけど、確かにちょっとわかりづらい。

 「本に、(自分に)役に立つことを求める人も、求めない人も自由なのではなかろうか」と言うご指摘。これまた仰る通りです。本を読むことが自分にとっては趣味なので読書を例に書き出してしまったのだけど、読書に対して役に立つことを求めても悪いわけではない。どちらかと言うと大多数の人にとって読書とは何かを得る為の手段なのだと思うので、そもそも自分にとって趣味の象徴であったとしてもわかりづらいし、そうやって何かを得るために読むと言う行為自体を否定しているように伝わってしまう。

 これは意図せざる結果なのだが、改めて読むとそう取られても仕方ない書き方だなと反省。今回は若干タイトルも途中も煽り気味に書いてるからそれが余計に助長しているんだろうな。つまるところ、他人に正しく伝えようとする努力が足りていない文章の拙さが出ている気がする。あくまでも自分の思考をあまり加工せずに出していて、読み手を考えた文章を書いてないと言うこと。まぁ、このノートが一旦頭の中を垂れ流してみる感覚で始めたこともあって、受け手ありきで書かれていないと言うことによるのだけど。書く以上、最低限の伝わりやすさは考慮した方が良いのかもしれないね。

 例えば、伝えることを優先するなら、読書云々って言う自分のことは置いておいて、こんな構成の方が良かっただろうなぁ、と思う。

1. 趣味のある大人はとても魅力的だと思う。
2.それは趣味と言う活動自体が対価を求めずに
 自分の好き、やりたい、と言う気持ちに
 従っている行為だからなんじゃないか。
3.何かを得るための行動やある種のコスパ主義が
  蔓延しているからこそ、そこから自由になってる
 趣味の存在は貴重で尊い。
4.趣味と友人関係って似てる。
 見返りを求めなくても
 結果的に得られるものは多い。

 みたいな感じ?

 いずれにせよ、読んだ上で感想をくれると言うのは非常にありがたいことなんだなとnoteを始めて実感した。感想は全て思考のきっかけになる。
フィードバックが成長の元になるってのはこう言うことなんだろうなぁ。
ありがとうございます!

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