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近代美術論で近代文学論を学ぶ

岡崎乾二郎『抽象の力』を読んだ。
帯コメで高階秀爾や浅田彰が絶賛している。

それより何より、本の佇まいが美しい。

しっとり手に吸い付くような紙の質感も素敵。
で、期待して読んでみるんだけど、書いてあることがさっぱりわからん。こういうことって多い。なんとなく背伸びし過ぎてしまったかな、という後悔を感じつつ、まぁわからない、知らない世界を読み進める。読む意味ないじゃん、と言われそうなんだけど、まぁそれでも理解できた気がするというか、なるほどねって思える箇所が少しでもあるならそれだけで十分なんじゃないかって思いながら読んでる。

わからないこと、理解できないことの理由は結構シンプルで、まず自身の読み自体の雑さと、前提とされる知識の不足の2つがあげられる。

読み自体の雑さは、理解したければ丁寧に精読せよ、ということになるのだけど、そもそも前提知識不足な場合、注やら何やらを丁寧に拾っていったとしても、どうせ理解できないことが多い。なので、まぁわからなくてもいいや、と読み進めてしまいながら、この知らない世界に入っていくためのとっかかりを探すことが多い。

例えば本書では漱石の文学論である「fとF」という概念がとても重要っぽいなぁ、ということは読み進めているとなんとなくわかるので、改めてそこだけしっかり読み込んでみたら、面白かった。いやはやなんともお恥ずかしい限りなのだけど、そんなもんなんだよね。

本書は美術の本なのだけど、上述した通り漱石の文学論が重要な概念として提示される。ローレンス・スターン『トリストラム・シャンディ』を引き合いに出しながらの一節。

小説はあらかじめ規定された結論に経験を到達=還元させてしまわないこと、つまり確定的ロジックで出来事をようやく、結論づけてしまうことへの抵抗によって形成される。P.18

これはまさに先日ここで書いた話とも繋がる。

「fとF」理論は、日常で感受している無数の印象、感情のf(feeling)と、この取り留めのないfの累積に対して焦点を与えるF(Focus)の函数として文学はできているという理論。ただ文学で用いられる言葉は、言葉であるがゆえに単語の1つ1つがある種明確な意味を持ってしまっている。言葉は記号として、何かをすでに指示=Focusしてしまっているのだ。

個々の単語はすべからず「F」すなわち観念を示しているのであれば、「f」すなわち感情の表出はいかに可能になるのか。「f」は個々の単語ではなく、この単語と単語の連結の様態、基本は同じ意味内容を伝えている文の言い回し、様相、文体として示される。いわば言い回しの違いによって、文学は、物語られている同じ対象、事実=「F」に対する、それを語る人の位置、距離、視点の違い、それにともなう驚き、感嘆、躊躇、動揺、悲しみ、疑い、怒りなどの差異までをも提示するということになろう。P.192

まぁやはりこの辺の考え方って、言葉を使って、言葉にならないものの輪郭を描き出す試みっていう話に通じるよねと思っていて、近代芸術の本なのだけど、結局一番反応してしまったのはこの部分だった。そして、こういうのを読むにつけ、夏目漱石の天才ぶりと巨大な影響を改めて感じるな。

結局、本題の芸術の話はいまいちよくわからんままなのだけど、それは圧倒的に予備知識不足なんだよね。だって熊谷守一のことも、白井晟一のことも知らなかったからね。だから今度気が向いたら、その2人のことも読んでみようと思う。そう思えたのが知らない世界へ入っていくとっかかりであり、これだけでもう十分なんだよね、そしていつかまたこの本に戻ってくる気がする。

自分の好きなことを表明すると、気の合う仲間が集まってくるらしい。とりあえず、読んでくれた人に感謝、スキ押してくれた人に大感謝、あなたのスキが次を書くモチベーションです。サポートはいわゆる投げ銭。noteの会員じゃなくてもできるらしい。そんな奇特な人には超大感謝&幸せを祈ります。