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映画鑑賞力とは。

数日前にTwitterで『映画鑑賞力』という言葉が話題になった。主によろしくない方の意味で(いわゆる炎上)。

事の発端となるtweetをした方が、該当tweetを削除したため詳細は伏せるが、ある方の映画感想tweetに対し、リプライにて「(あなたは)映画鑑賞力が足りない」と批判したのである。

このリプライには多くのネガティブな反応が寄せられた。ざっくり言うと、「どんな感想を持つかは個人の自由であり他者に批判される謂れはない」ということだろう。

私もそう思う。というか、常々そう言ってきた。

私はジャン=リュック・ゴダール監督の映画が好きで、Blu-ray BOXを全部揃えており、夜な夜な一人で鑑賞するのが好きだ。そのことを映画好きの友人に話すと「ゴダールは敷居が高い気がして・・(観ていない)」と言われる。

上記はゴダールに関する私のtweetで、言いたいことは「敷居とか気にしないで、興味があるなら気軽に観てみたらいいじゃん!」ということだ。

ゴダール作品は難解だ。色んな映画批評家が『日本語でおk』と思わず言いたくなるような小難しい単語を並べたレビューを書いているし、関連本は分厚く学術書のようだ。

何というか、インテリ御用達感が強いのである。
しかしながら、私はインテリではないがゴダールを観る。

ゴダールが言いたいことや、批評家が受け取った情報の半分も理解できていなくても、私はゴダールを観る。

全部はわからないが、時々「ハッ」とするようなセリフがあったり、「カッコイイ・・」と惚れ惚れするようなシーンがあるから。衣装や小道具もかわいいし、作品に登場する車もカッコいい。

ガチのゴダール通から見たら、私はきっと片腹痛い鑑賞をしていると思う。それでも、私はそれを批判されたり、あざ笑われたりする謂れはないと思っている。

エンターテイメントを楽しむのにマナーは必要だが、知性や感性や経験などのハードルは必要ない。

大人になってから観る『となりのトトロ』は味わい深いが、小さな子が作品の時代背景や監督の偉大さを知らずに、何の先入観もなく観る『となりのトトロ』が大人の鑑賞に劣っているはずがない。等身大の自分の目線で観ればいいだけの話だ。

だからこそ、もっと年をとった時、もっと経験を積んだ時、あるいは感性に変化があった後に再びその作品に出会うことが出来る。自分が変わり続ける限り、同じ作品に何度でも出会える。それもまた映画鑑賞の醍醐味だ。

炎上した「映画鑑賞力」というワードだが、コレについて色んな人が各々の「映画鑑賞力」を皮肉まじりにtweetし、大喜利の様相を呈していた。面白いので、興味があったらタグを見ていただきたい。

人様の知性や感性を批判しない限りにおいては、「映画鑑賞力」を自分なりに定義することは構わないと考える。現に私はホラー映画を観ても、怖いと感じないタイプの人間であるため、こんなtweetをしてしまった。

また、映画上映中に気を散らさないだけの集中力も大事な気がしてきた。

私にとっての「映画鑑賞力」とは、(知性や感性ではなく)完全にフィジカル面(イスに長時間座れる等)とメンタル面(途中で心が疲れない等)の耐久力ではないか。

10代、20代の頃は飽きもせず、疲れもせず、延々と本を読んだり映画を観ていられたのだが、最近はインターバルが必要だ。思わぬ経緯をたどって、自分の加齢と向き合う形になった炎上騒動であった。

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