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ひとつに限定されてしまうとしんどいよね

ひとりの人間の中に振れ幅があり多様さがある。
いわんや、人それぞれもひとりひとりが違っている。

なのに、たったひとつの「価値のものさし」で測られてしまう。
その無茶苦茶さ、理不尽さ、やりきれなさ。

つくづく人間って、ヘンな生き物だよね〜。


たったひとつの「価値のものさし」ではかられること

つい最近公開されたsoarの記事がおもしろかった。

理想をいったん脇において、生き物としての人間一人ひとりの現実を見てみると、たくさんの無駄や、ブレや、ゆらぎと共に生きていることに気づく。
元気なときもあれば落ち込むときもあるし、シャキッとしていることもあればのんびりしていることもある。物事の好みが一人ひとり多様なのはもちろんだが、実は同じ人間の中にも振れ幅がある。
日本の社会で生きていると、「これが普通」「これが正解」という価値のものさしが強くあって、そこから少しでもずれちゃうとしんどくなってしまうんですね。
ここ以外でも、しんどい思いをしている人たちは世の中にいっぱいいるはずですが、他の価値観を知らないから、上手くいっている人を妬んだりとか、逆により弱そうな人、よりずれている人を攻撃して自分を安心させたりとか、そういう方向に向かっていっちゃう。
根拠があるようでない、たかがひとつの価値のものさしが、”普通”と”異常”を線引きし、障害をつくりだす。

なるほど、そうか。たったひとつの「価値のものさし」ではかられることがしんどいんだよなあ。
多様なものがひとつに限定されてしまうこと、が生きづらさでもあるわけだ。


◎整然でなく雑然とした場所

このことは前回記事にした内田樹さんが言ってたことと、とてもよく似てるじゃんと思ったのよ。

勝手に人を「◯◯でなければいけない」と定型を決めて、その定型から逸脱している部分をガッーと批判するんですよね。日本人が相互に批判し合っている。
狭いところに押し込められて、のびのび息ができないっていうのがみんなに共通してると思うんですよね。それをお互いにやってるんですよね。
狭いところに押し込められて苦しんでる人がのびのびしてる人に向かって、楽しそうにやってる人に向かって「オマエも箱に入れ」って。

僕自身も無自覚のうちに、「◯◯でなければいけない」でぐわーっと頭がいっぱいになっているときがある。で、そこからはみ出してる人が無性にムカついたりして。
でも、それは自分がしんどいし、まわりの人もしんどいんだよな。
そこから出たい。

喫茶カプカプのように多様なものを多様なまま雑然としておく。
そういう環境を自分の身近なところで見つけたり、つくっていければ。

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