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萎えさせる言葉と広がりある言葉/自己責任と欲望形成支援

言葉によって世界が広がりを見せることもあれば、言葉によって世界が窮屈になってしまうこともあるなあと思う。

世界が窮屈になってしまう言葉の代表が「自己責任」だなって感じるんよね。
言葉そのものの意味は「自分の責任」でしかないのだけれど、表をひと皮むいてみるとその中身は萎縮や圧迫のように迫ってくる。ひどく人を萎えさせる、黙らせる用いられ方がなされる。

一方で、世界が広がりを見せる言葉とは、つい最近知った「欲望形成支援」。哲学者國分功一郎さんの造語らしいけれど、この概念を知れば知るほど「ああそれそれ!」と、待ってました感があった。

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野口晃菜さんのnoteを読んで「意思決定」について考えていた。
意思決定が「自己責任」にさせられるために用いられているとしたら…おそろしさを感じてしまう。
なんだかなあと思ってしまうけれど、そういう使い方をさせてしまう背景がこの社会にはあるってことなんだろうなあと。

支援者が勝手に決めてしまっていること、「意思の尊重」という名のもとの自己責任、当然の権利を主張しているだけなのに「モンスター」認定をしていることを認識しなければならない。
そもそも「意思決定」は自分でしているようで、自分を取り巻く周囲やこれまでの過去の履歴との関係性の中でしている。純粋に自分の内側から出てきたもので決めるわけではないのに、「決めたのはあなただから自己責任」となる。

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本文のなかで紹介されていた國分功一郎さんの「意思決定支援」ではなく「欲望形成支援」。この内容にも思わず読みいってしまった。
以前に読んだ「中動態」について書かれていた本は個人的に嚙み砕くのが難しかっただけに、今になって「中動態」という概念が少し理解しつつある気がしている。

行為は多くの原因によって多元的に決定されているはずなのに、たった一つの原因、意志という原因によって一元的に決定されていると、僕らにそう思わせてしまう。
(…)ところが、僕らの使っている能動と受動に支配された言語によって、この少し考えればわかることがわからなくなってしまっているのではないか。
意志というのは“切断”とでも呼ぶべき側面を持っています。「僕はこれを自分の意志で決定したんだ」というのは、何ものからも自由で独立した自分が決めたという意味を持ちますが、本当はそんなことはあり得ない。自分で決めたと言っても、いろんなことから影響を受けているに決まっている。けれども意志という言葉を使うと、そういうものを断ち切る、切断することができる。
 そういう切断を強いられるというのは非常にキツいことではないか。決定に関わる無数の要素を無視して、見ないようにしなければならないからです。ならば、切断ではなくて、過去との連続性や周囲とのつながりのなかで、「自分は何をどう欲望しているのだろうか」について誰かと一緒に考え、自分の欲望の形をハッキリさせていく、そういう支援のほうが大切ではないか。これが僕が考える欲望形成支援です。
意思決定支援というのは新自由主義的ですね。「結局は自己責任」という考えが根底にある。一緒に欲望の形をハッキリさせていくというのはそれとは違いますね。つまり、「決定権を委ねます」「決定しました」「決定を受け取りました」というのは、徹頭徹尾、能動・受動の対立に基づいていますね。それに対し、「一緒につくっていきましょう」というのは中動態的だと言えると思います。

自らの意思によって自分の行動を決められる・決めている。と思いきや、そもそも100%純粋な意思なんてもの存在するんかい?という投げかけ。
複雑にからみあった状況・状態の中で僕らは選んだり決めたりしている。
能動と受動の対立した概念だけの中にいるとそのことになかなか気づけない。

過去との連続性や周囲とのつながりのなかで、「自分は何をどう欲望しているのだろうか」について誰かと一緒に考え、自分の欲望の形をハッキリさせていく、そういう支援のほうが大切ではないか。

意思決定支援よりも欲望形成支援とはまさにそうだなあと。

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特別養護老人ホームで職場体験をさせてもらったときに感じたのは、利用されていたじいちゃんばあちゃんが「年寄りだから危ない」という扱いをされて施設に来ていたこと。
・家で転んだりしたら危ない。
・火の元の始末を忘れてしまったら危ない。
・外は車がいっぱいだから危ない。

危険だからと施設に来させられ、そこのスタッフも同じように扱ってしまうことを疑わない。本人の気持ちなんてなくって、言われるがままにするしかなくて。そうなると、欲望どころじゃないんだろうなって。ましてや意思なんて。

そういう境遇の方には「どうしたいの?」という聞き方よりも、「一緒に考えていきましょう」という呼びかけは適していると思うし、僕自身にしても安心する気がする。

ただ、欲望形成支援が同じように「自己責任」のためにならないように言葉を育てていく必要はあるなあとも。

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世界が窮屈になってしまうような言葉があれば、世界が広がりを見せるような言葉もある。
言葉をどう育て、言葉をどう使うのかでその人の世界はいかようにも変わっていくのだと思う。


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