映画『風の電話』/もし失った人と話せるとしたら、あなたはなにを伝えますか?
たまたま偶然に生まれてきて、たまたま偶然に死なずに生きている。
人の生き死にって、たまたまでしかない、偶然でしかないんだろう。
それなのに、人は出会いの喜びを感じたり、別れの悲しさを想う。
最期だと分かっていたのなら、話しておきたかったことがあったのに。
失ってみてはじめて気づくことがある。
だから、「もう一度だけでいいから話したい」。
そんな願いが叶うとしたら、あなたはなにを伝えますか?
◆◆◆
岩手県大槌町の丘の上にある電話ボックス。
黒電話が置いてあり、線はどこにもつながってないけれど、風に想いを乗せて亡くなった人と話すことができるという。
だから「風の電話」と呼ばれている。
映画の存在を先に知ったから、大槌町に「風の電話」が実際にあることに驚いた。これまでに3万人以上の人たちがこの場所を訪れているらしい。
その「風の電話」を題材にした映画『風の電話』。
17歳の高校生ハルは、東日本大震災で家族を失い、広島に住む伯母、広子の家に身を寄せている。心に深い傷を抱えながらも、常に寄り添ってくれる広子のおかげで、日常を過ごすことができたハルだったが、ある日、学校から帰ると広子が部屋で倒れていた。
自分の周りの人が全ていなくなる不安に駆られたハルは、あの日以来、一度も帰っていない故郷の大槌町へ向かう。広島から岩手までの長い旅の途中、彼女の目にはどんな景色が映っていくのだろうか―。
主人公ハルは家族を失い、今は広島で叔母とふたりで暮らしている。
叔母が倒れたことをきっかけに故郷である大槌町に向かうのだけれど、偶然の積み重ねによって風の電話の存在を知り、亡くなった家族に語りかけることになる。
◆◆◆
震災の津波によって、大槌町では800人以上が亡くなり、その半分の400人近くが行方不明のままだという。
なにも見つからない・手がかりがなにもない、ということが残された人にとってどれほどの思いにさせるのか。
当事者になってみないと分からないのだろうと思う。
なのに、震災で失くした人がいない僕でもこの作品を観て心が揺さぶられるのはどうしてなんだろう?
同情ではない、憐れみでもない、かわいそうという感情ですらない。
たぶん、人は誰でも大切なものを失っていくからだと思う。
喪失したもの、失ったもの、もう取り戻せないもの。
それらをどうしたらいいのか、どう向き合えばいいのか。
大切な人・ものを失ったあとの世界をどう生きていけばいいんだろう。
無視できない、けれど、どう触れればいいのか分からない、そんな引き裂かれるような宙吊りにされるような気持ちが人のなかにはある。
そういう表現に困るような気持ちが、映し出される映像に刺激されて、ふつふつと浮かび上がってくる。
だから、心が揺さぶられないではいられないんだろう。
◆◆◆
個人的にもうひとつ思ったこと。この作品を観て、震災の体験を悲しめてなかったな、泣けてなかったなと気づいた。
作品のなかで福島から大槌町へ向かう途中、仙台らしき街並みを通過する。
震災なんてなにもなかったようだとハルは心情をこぼす。
そう、そうなのだ。
今現在仙台に住んでる僕もなかったことのように暮らしているんだよな。
ただ、それというのは、震災でダメージがあったのは津波の被害があったところ、原発事故があったところであって、それに比べてしまうと仙台は軽傷に思えてしまうからだ。とてつもない被害を受けている人がいるなかで、軽く済んでむしろ幸運だったのだと。
とはいえ、あの揺れはすさまじかったし、その後の生活環境は大きく変わったこともあった。少なからず動揺したしショックもあったし、だから、そういう感情があったことが少しずつ蘇ってきて、今になって9年経ってやっとああ悲しかったんだよな、ショックだったんだよなと。
そんな自分がいることに気づかされて、当時の自分の気持ちを受け止めながら観ることができた。
◆◆◆
大切な人・ものを失ったあとの世界をどう生きていけばいいんだろうね。
誰も教えてくれない。
というか、誰も分からないのだと思う。
グリーフケアやグリーフワークというものもあるようだけれど、それだって唯一の正解ではないだろうし。
どう生きていけばいいのか分からないなかで、どうにか生きていくこと。
ただそれがその人にとっての答えなんだと思う。
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