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「自分の記事を読み直して、こんなに心ワクワクするんですね」記事の面白さが上がる「一段階視野の広がる」助手席アドバイスとは

エンターテイメントを意識して情報を伝えると、従来なら興味なかった人々も次々やってきて、びっくりした。

楽しみ・面白さを第一とし、衝動で面白い展開が訪れる情報の伝え方をした結果、次々と予想もしない出会いを実現できてしまった。

たかが情報の伝え方ひとつで、どうして実現できてしまったのか。
楽しさを意識しているからだ。どう楽しさを意識すればいいか
こんなアドバイスがある。


読者を"助手席"に乗せてみて

僕はクライアントから送られた記事の添削をやっている。
以前、クライアントの一人として斎藤さんを載せた。

別のクライアントに主婦の野崎さん(仮名)がいる。
彼女は旅系の記事を書いている。
「ここに行き、写真を撮り、載せました」が主な内容だった。

正しい書き方ではあるが、心を動かされなかったので、彼女へ次のような意見を送った。

「読者を助手席に乗せた感覚で書いてみてください。記事は旅そのものです。読者と一緒に旅をして、一緒に感動を味わっている状態を作ってください。野崎さんの記事を読んだ読者に錯覚をさせるのです(読んだ人はうまく言葉で説明できないけど、なんか感じるなあって状態で)。
私、この人(野崎さん)知らないんだけど、なんか気分がいい。例えるなら一緒に旅をしているかのような感覚で。難しいと思いますが、意識するだけで記事に違いが出ます」

「一人だけど一人でない」感覚

野崎さんは旦那さんとお子さんとで旅をして、旅の報告を書いた。仮に野崎さん一人で旅をして旅の報告を書いていても、記事を書くときに違いがない。

記事を書くとき「そばに人がいない」のだから。一人、パソコンかスマホ、タブレットとにらめっこしながら、記事を書く。

違いはここからだ。

ただ起きたことだけを書くのか。同情者と一緒に旅をしている感覚でを書くのか。

「記事を書く」行動は同じでも、情報の伝え方に差が生じる。

旅行して「これがあった、あれがあった」は書き手の感覚や感性を引き出すうえで役に立つが、忘備録に近い。

記事を書いているときの自分が幸せであり、読んでいるときも読者など気にせず、自分だけが楽しむ……いや、未来の自分すら楽しめるかどうかもわからない状態だ。

一方で同乗者と一緒に旅をしている感覚だと、自分だけ良ければいい意識をもてなくなる。物理的に人はいなくても、心の中に第三者がいる。

第三者と一緒に楽しめた感覚を記事におこすと、次の話題が出てくる。

「あの名所、なんで有名になったんだろう?」
「ほらみてあの湖、あそこになにかありそうだよね」
「狐とか出てきそうだよ、ここ」

同乗者を意識すると、作業以外の無駄が生まれる。無駄とは「湖に何かありそう/あの名所が有名になった理由」などだ。

自分一人だと大した気にならない・後から振り返っても特に感想がない箇所であっても、同乗者がそばにいるとコミュニケーションが生じ、雑談がうまれる。

雑談に一つずつ答えていくと、お互い「そうだったのか!」知識欲を刺激し、お互いが楽しくなる。

お互いの楽しさ、裏を返すと

自分"一人"に焦点を当てすぎると、中身がつまらなくなる


記事を書くときは基本一人作業だ。僕もパソコンとにらめっこをしながら記事を書いている。だからこそすべての基準が「自分だけ」になってしまう。

自分だけになると、起きた出来事と自分の思ったことを淡々と書けばいい。一応あなた(僕にとっての第三者)がこの記事を読む際、誤字脱字と話の流れに気を付けるだけで、特に無駄がない。無駄がないから横に広がりようもない。

一方僕の意識にて次の想定を浮かべた。

読者と僕が同じ記事を読み、お互いの心がワクワクな状態に向かっている。なぜわくわくなのか。記事を読んでいくうちに"ここが面白いな"や"こんな考え、あっていいんだ"など、意外性があるから。
加えて記事を基に僕と読者が話し合っている。「ここ面白かったよね」など。

僕という「一人」に無理やり第三者を突っ込ませる
あなたは今、ここまで僕の書いている文章を読んでいる。

少し難しい表現になるのをお許し願いたい。

あなたがここまで記事を読んでいる時点で、僕とあなたは「似た方向」を見ており「似た目標に達し、想定もしない未来を歩みたい」
書き手の僕が捉えている。細かい部分は違っても大まかな部分は同じだ。

「え、あんたと同じ方向なんて見てないよ」あなたはつっこむだろう。「何を言っているんだ、この人は」とも思うだろう。あなたは僕に対して、どう思ってもいい。

書き手である僕だ。僕が今ここまで読んでいるあなたをどう捉えているか。読者と僕は「目指す道が同じ」同士とでも表現すべきだろうか。

同士と捉えるか「たまたま読んだ人」捉えるかで、伝え方が変わる。するとここから生まれる面白さも変わる。


例えるならツイッタートレンドに上がっている話題だ。最近だとはじめの一歩作者、森川ジョージ先生がGガンダムを見ての感想を述べている。僕はGガンダムを知っているが、一度も見ていない。

森川先生のつぶやきにGガンダムを知っている人はもちろん、知らない僕ですら「面白い」から思わずつぶやいてしまったり、いいねを推したりリツイートしたりと、反応している。

僕と森川先生、そして先生に反応したほかの人々は「Gガンダムの面白さを分かち合おう」名目にて方向がそろっているとみなせる。


僕が野崎さんに伝えた助言も「野崎さんの読者と目指す方向・たどり着きたい道・味わいたい感動のほぼ一致」に焦点を合わせている。


「これはワクワクせずにいられない」がもたらす明後日の方向

あなたは僕を含む人様の記事・SNS発信の情報(記事・画像・動画・音声など)を見て

「おおお、これはワクワクせずにいられない。うまく言葉で言えないが、面白い。もっと見ていられる」

感じた体験はないだろうか。感動体験こそが僕たちを衝動的に動かす力となり、ツイッターだったらいいねやリツイートなどを、商品だったら買う選択が生まれる。

だから僕はエンターテイメントを少しでも言語化かつ整理したうえで「楽しさ・ワクワクドキドキ」を意識しながら書いている

普通に書いてたら、未来の自分が読んで「うん、心が動かない、面白くなーい」言っているのだから。

この宣言を先日こちらで書いた。

情報を伝えるとき、別に気持ちが面白くなくてもいいんだ。気持ちを面白くさせなくてもいいんだ。

面白ければ人が集まるかどうかと言ったら、タイトルに惹かれて人が集まる・商品が「欲しいもの」だから買う」など、面白くなくても動くときは動くのだから。

面白くないものばかり接していると、気持ちもつまらなくなって、どんどんウツ気味になってしまう。楽しさは人生の外側にしかなく、自分で自分を盛り上げていかないと、どんどんしぼんでいくだけだ。

面白さ・楽しさは「つまらなくて妬み逆恨みに満ちた日常」から身を守る生き方でもある。あほでいいから「少しでも楽しくできないか、面白いなあ」仕事をすると、運気がつく

※仕事の種類にもよるよ。葬儀などでニヤニヤしたら怒られるからね。あくまでもTPOをわきまえたうえで、ね。

僕が彼女に助手席アドバイスを伝えた結果、少しずつではあるが「心が動かされた。面白い」思うようになった。

彼女は最初の見出しことタイトルをひねる対策をとらねばならないが、中身はまとまって、一緒に旅をしている感覚を抱く。

野崎さんも後日、メッセージで書いていた。

「自分の記事って面白くなるんですね」

僕が伝えた助言は「ここでこういう言葉を書くと、一緒に旅してる気分になるよ」はっきり形を持つテクニックではない

気配り・気遣い・視野であって、無意識にテクニックを扱えている状態だ。観念的で言語化しにくく、一度聞いて(読んで)完全理解しにくいところが難しい(試行錯誤が必要)。

試行錯誤を通し、無意識をエンターテイメントを意識に変えていくと、自分から楽しい言葉を入れて、同時に面白くない・楽しくない表現を削れるようになる。

楽しくない表現とは「自分の価値を率先して落とす言葉・文章」だ。後は記事をいくつか書いていくうち、野崎さんも体でコツをつかむようになり、大きく伸びると予測している。

「へえ、面白そう」

思ったら、記事を元に日常生活へ取り入れてみるといい。
昨日の自分とは違う生き方につながる。

アクセス数など数字が変わる場合もあれば、変わらない場合もあるが、情報の伝え方に頭を使うので、今までとは違う書き方・考え方=昨日の自分とは違う生き方につながる。

今回の記事、面白いと思ったら、広めてくれると嬉しい。


支援していただきありがとうございます。支援は僕の作品作りを含め、子供へのお小遣いや楽しいことに貢献します。ありがとうございます