ノリが悪い人、だったんだろう私は。 「関西人なのに関西人ぽくないね」 ・・・よく言われる。 これは東京に来てからの話ではない。 中学生の頃、同級生に怒られた記憶がある。 「オチないんかい」 「笑うのが早すぎる、まだそこは笑うとこやない」 友人は怒ったつもりはなくて、たぶん、ただのツッコミ。 求められるようにはできないことを なんでそうなるかな(ダメだなぁ)って受けていて でも 言われて意識したからってうまくできなくて 一人になるとよく考えてた。 みんなとの時間は楽しかっ
雨で肌の調子がいい。 植物が青々とする気持ちがわかる。 ・・・ 旧赤星鉄馬邸の建築が期間限定で公開されると知り こんな近くにそんな機会があるのであればと足を運んだ。 日曜は混むけれど火曜までの公開なので選択肢なし。 40分ほど並んでいたが、 住宅街だからなのか 並んでいる客層なのか 建築に関心がある人がそういう人たちなのか 風や樹々の葉の擦れる音が耳に入るくらいには 並んでいる人や邸宅の塀の補修跡や日焼け痕を観察して 思い耽りながら落ち着いて待つことができた。 ”
自分が自分で居られることを 認めてくれる そんなご縁のあった人が 2人、先に他界していて haruka nakamuraさんは 次へ繋がる そんな機会になれたら と言った ほとんど顔も見えない ほのあかりのなかで 彼の音色は 静かにさざめく波のような 巡る季節の気配を孕む風のような 無意識に在る自然と 芯に届く響きがある 鯨が飛沫をあげて宙を舞う写真に 本田慶一郎さんの朗読と harukaさんのピアノが身体に深く入り込んできて じんわりと涙が出た 「人間の生
映画に熱い知り合いに魅惑的な導入を聴かされ、 その熱冷めぬうちに向かった 観る順番を「重すぎるから」と助言され その通りにしたけど、 本当にその助言があってよかった 吸う空気がどんどん重くなって、比喩じゃなく胸を掴みながら観た 池袋からの帰り道 街を行き交う人の歩く足元がやたらと目に入ったり 百貨店の地下街に溢れた商品が全部同じに見え目に入らなくなったり 女子高生が集まってアイスクリームを食べて笑う姿に苦しくなったり ノイズキャンセリングしたまま無音のヘッドホンをして帰路
・吉村順三とジョージ・ナカシマ@ink gallery、堀部安嗣@鎌倉山集会所 最終日、雨。 大船山から車を借りて向かう。 gallery入口の坂に駐車できるようだがアルファロメオやポルシェが並ぶのを見て勇気が出ず、近辺山道の路肩に止めようとするも「お姉さんそこは私有地、止められませんよ」と軽トラのおじさんに忠告されすみませんと謝り車内へ。様子を伺いつつ道を選ぶも行き止まりに迷い込んでバックでなんとか戻るなどし、七里ヶ浜あたりのパーキングに停めて歩く。ザ、旅感。 なんとか
ちいちいさんの絵は、饒舌ではない、と思う。 静かで、でもじっと向き合っていると、何か言いたそうな雰囲気がじわぁと滲み出てくる。そこから耳を澄ませ、感じて、やりとりする。 世の中にあることは、わかりやすいことばかりじゃない。喉越しの悪い、納得いかないけれど通るしかない道がある。目の前で沈んでいく船を見つめ、ただ眺め続けるしかないことがある。 科学、技術は日々更新されているが、調べても出てこない問い、統計学では説明のつかない事象、前例のない未曾有のできごと、 「わたし」
「身銭を切って、これぞと思うものを、売り手と会話しながら買う。そういうことに意味がある。意外と奥が深いよね。」 京都の東寺市に通い始めたのは、もう15年以上前のことだ。Yさんは、そんな話をしてくれた。 骨董市に行くときは、まず本堂にお参りする。それからゆっくり深呼吸する。冷たくしみ入る冬の空気、蒸しかえる砂利の熱気と頭に響いてくる蝉の夏。朝はどちらもいいなと思う。そこからその日の感覚を頼りに東寺を見て周る。自分の目に留まるものは何か、力みすぎても緩みすぎてもいけない(狩猟
いろいろと考え、昨日は3時まで寝付けなかった。 思考が働き続けている。とはいえ悪い感じはしないので、ものを見て少し視野をゆるめることにする。シャワーを浴びて、8:30には家を出る。日中は人通りの多い街も、まだ静かに動き出したところだ。行きたかった新木場のcasicaへ。こういう時は歩いて感じてバランスをとる。 が、営業時間を1時間も間違えてしまったことに到着して気づく。だめだこりゃ。近くを散歩するとコンクリートと木材のガシガシした建物が。すごい存在感。中には入れなかった
三千院の庭を歩くと、特に雨上がり、目の冴えるような緑の美しさに、生命力の鮮やかさが肌から染みてくるような感動に浸される。もちろんお寺や仏像も心を鎮めて対峙する空間として素晴らしいが、この澄んだ空気感に惹かれて何度か足を運んでいる。この場所が1200年も前から人々の心を癒し、大切に人々に守られ、互いに寄り添って成立してきたことには、本当に考えさせられることが多い。 上の画像は真夏の京都三千院、3年前の写真。何度か訪れている中で庭苔を手入れされている方に出会ったのは初めてだった
24時間営業のスーパーとステーキ屋の間 挟まれるようにして道路に面した細い路地に 「500円」の紙が貼られた切り花のバケツ ハーブのポットや多肉植物などの小ぶりな鉢植え 食虫植物や紫陽花もあったか それらがざっくりと置かれた路地の奥には 店舗らしきガラス張りが見えるが灯りはない 華やかさ、今っぽさは全くないが なんとなく惹かれて自転車を止めた 切り花2種類か、、、いやでも部屋が暑くなるとかわいそうだしどーしようかとみていると 植木の間に四角いプラスチックの
言葉として正しいのかは賛否両論あると思うが、躾として必要な部分(伝える必要があるところ)と自分の判断で選び取りその責任を持つことで学んでいく部分(学ぶ機会を得るところ)の境目というのは掴みづらく、そのほとんどが瞬時に判断を求められるところだ。はっと考える機会は多いし、この見極めがその後の子どもの姿にはっきりと現れることに驚き、反省することも多い。よく引き合いに出される言葉として「放任」と「過干渉」があるが、伝える必要があるところを伝えない、が放任。学ぶ機会をこちらが全て奪って
「恵は昔からそうだった。」そう言って、母が話す幼い頃の私の話を、ふと、思い出すことがある。母の〈昔の話〉が好きで、母自身が小さい頃の話もよく聴いた。絵本の読み聞かせも好きだったが、それよりもわくわくした。何度も聞いているので最初がいつかは思い出せないが、中学生か高校生の頃、いや小学生の頃だったかもしれない。だから、今から20年くらい前のことになる(ひゃっ)。私には記憶がないのに、話の部分が生活に馴染みのある場所だったこともあり、わりと具体的な景色を伴って、時折、思い出す風景が
心が動いたこと。その時に感じたこと。 それをもとに考えたこと。 自分の言葉で書き留めていく場所にしたいと思います