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身銭を切る

「身銭を切って、これぞと思うものを、売り手と会話しながら買う。そういうことに意味がある。意外と奥が深いよね。」

京都の東寺市に通い始めたのは、もう15年以上前のことだ。Yさんは、そんな話をしてくれた。

骨董市に行くときは、まず本堂にお参りする。それからゆっくり深呼吸する。冷たくしみ入る冬の空気、蒸しかえる砂利の熱気と頭に響いてくる蝉の夏。朝はどちらもいいなと思う。そこからその日の感覚を頼りに東寺を見て周る。自分の目に留まるものは何か、力みすぎても緩みすぎてもいけない(狩猟民族になった気分)。頃合いを見て、Yさんと北門のホットコーヒーの出店で待ち合わせた。そこで一杯100円のコーヒーを飲みながら、「さぁ、いくらかな?」と互いの収穫物を見せる。「うーん、自分が作るならこれは10000円では生きていけない。え、1000円だったの?嘘!」とか、「あのお店にこんなものが?私のときはなかった・・」とか。また、時には海外からいらした教授や日本の作家さんとご一緒することもあったが、初対面にも関わらず、買ったものを見て親近感を覚えることもあった。相手も同じように感じているようで、不思議な気持ちだった。

ものを見つけて、交渉して、買う。店主はみんな違う。だから、交渉の仕方も、ものの扱いも、値段の尋ね方も、選ぶし悩む。どうしたら互いに素敵な時間になるだろうか?安ければいいとも限らない。ただ値切るだけの買い手には、本当にいいものを知る目利きの眼差しが鋭い。いや、眼差しに入れてもらえないことの方が多いか。

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何を見るか、から全てが始まっている。そこからはその人にしか得られない、他の誰かの何かと替え難い経験だ。いろんなものを買ったけど、店主とのやりとりや、購入した時の思い入れはそれぞれにある。初めて骨董市に行って小箪笥を買った店主はもうその頃の快活さは衰えを見せて、どこか寂しげな雰囲気になっている。数年ぶりに尋ねてお会いすると「お元気にしてはりますか」「東京の学校はどうですのん」と聞いてくれるご夫婦もいる。何か買って帰らないと申し訳ない気もするが、私の好みを知っているし、情けで買うのは失礼と考えて、丁寧に挨拶をして辞す。時流の中で、変わるものもあれば、変わらないものもある。

話は変わるが、この年末年始、陶芸のための土を練っていた。3学期に陶芸をやってみようと考えていたからだ。大学の頃、院の先輩たちが、学部生の授業で使う土を大量に用意されているのをぼーっと眺めながらなんともない会話をしていた。専門ではないが、陶芸は好きだった。その作業工程をなんとなく覚えていたので、乾いた土から粘土にする方法はイメージできていた。職場の美術科の先生にお声がけして、乾いた土を分けてもらい、やってみることにした。

やってみると、イメージしていないことがどんどん出てくる。「あー、もっと細かく砕いてから水に浸せばよかったのか」「そうか、接水面を増やさないと」「これてで砕いていくの大変だな、何か硬い鋭いヘラ・・・」「わー泥っぽくなってきたけどこれどうしたら効率良く乾くんだ」「泥の中の細かい硬いものはいつになったら消えて無くなるのか」「練っても練っても泥」「粘土を練って筋を痛めるってあるの?」「手がカピカぴ」、、、云々。

練っても練ってもあまりにも乾く気配がなく、「もうこれ以上は授業に間に合わない〜」と、最後は陶芸をやっている友人に相談して(最初から相談しないのが私らしいといえば私らしい)、車を借りて石膏ボードをホームセンターへ買いに行き、その駐車場で9等分させていただくなど。一応外見はまだ女子なようで、店員さんが「それ大変やなー」と助けてくれる。

今日、やっとこさ、子どもたちに渡せる状態になった。一ヶ月近く付き合ってきた土が粘土になった感動・・・。奇しくもコロナ禍、オンライン陶芸授業の挑戦。中学1年性は4月から『世界には、なぜ色や形があるのだろう』というテーマで進めてきて、形について探る最後の授業。

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私は、幼い頃から身銭を切って知ることの魅力に取り憑かれているのか、職場の先生が心配してくださり、「大変だから土を買った方がいいんじゃない?」と何度かお声がけしていただいたが、きっと、土を買って、それを等分して配布していたら今日のオンライン授業の導入は叶わなかったと思う。陶芸の土の魅力は可逆性にあるなぁと私はこの年末年始の1ヶ月で思う存分味わえたと思う。陶芸をやっている先輩には、「学校の先生って、余った土、乾いたら放置か処分だから、K氏は偉いなぁ」なんて言ってもらったけど、私はただ楽しんでいるだけだなぁ。

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