「創作」ってむずかしいと思った話

今日は2024年5月1日 水曜日。
現在の時刻は、午前10時03分。

わたしが健康を悪くし、自宅療養期間に入ってから、もう一年近くになる。

・・・ということは前の記事の書き出しにも書いたような気がするけど、改めて丁寧に説明をしたい。

わたしは、ここ(noteのこと)は何もテーマを決めずに文を書いていることが多い。もうちょっと丁寧に説明すると・・

そりゃ文章を書くときは「何か書きたい」というテーマを決めて、一本の記事を書いてるわけだが、この場所・・・note全体を見ると、たとえばその時に観た映画の感想だったり。はたまた、日々の出来事だったり。健康状態が悪化した時は、日々の記録。つまり日記をつけたり、など。全体を通して、何かを訴えたいというのは無く、まあ言うたら、その時の思い付き?で書きたいことを書いて、全体を通してみると、とっ散らかってる状態に見えるだろうなと思っている。


わたしが生まれたのは、1973年。昨年、50歳になり、はっきり言って若くない。これは自分がいくら他人に「俺、中身はまだ若いですねん」と申し立てたところで、数字上、見た目、的に若く無いのは事実であり、死なない人はこれまで居なかったはずなので、当然わたしに残された時間も、そんなに長くない。ということになる。

わたしが青春時代を過ごしたのは、1990年だった。

いわゆるバンドブームという奴の影響を受けて育ったせいか、創作することについては、ずっと興味があった。友達が少なかったので、バンドを組むという経験はしてないが。

いろんな映画を観たり、歌を聴いたり、本を読んだり。

当時はまだ、いうて経済も今より潤っていたので「こんなもの、誰が読むんだ??」というような本や映画もたくさんあったように思う。

自分はその世界に対して、憧れはあったが、その世界に踏み入ることはなかった。覚悟がなかったのだろう。自分にそんな才能なんて無いと、やってもいないのにやる前から諦めていた節があるように思う。


ところがそうした世界に対しての興味は薄れることは無く、趣味程度で色んなものに手を出してはいた。

はっきり覚えていないが、インターネットが使えるようになり。のちに、ブログというものが普及し出して、自分の思うことを書いてみたり。

しかし自分が書く文は、ゼロイチで作った創作話とかでは無く、身の上話が大半だった。愚痴だったり、めっさ感動した話だったり。生きていく上で日々、感じたことを「もしかしたら、多くの人の心に届くかも知れない・・」。

淡い思いを込めて、書いていたが、そう多くの人に届くことは無かった。

なかには、少数ではあるが、褒めてくれる人もいたが。


文だけではなく、音楽にも手を出してみた。

iPhoneにガレージバンドというアプリが入っており、有名なミュージシャンも使っていると聞いて、自分も見よう見まねで作ってみたが、その多くはカバー曲で。これもまたゼロイチと呼べるものでは無かった。


果たして自分に才能はあるのか??

そこに関しては、自分では判断つきかねる。

才能とは、多くの人が褒め称えてこその才能だ、という思いがわたしの中にあったんだろう。

しかし。


この一年、多くの時間を自宅で過ごし、とにかく暇で仕方が無かった。

一人で暇で、自宅にずっといると気が狂いそうになる。

で、なんでか知らんが、短歌をつくり出したりもした。

すると、今は?今も?SNS全盛の時代なので、短歌や詩を書く人と知り合うこともあった。


自分が詠む短歌は、作家の町田康さんの影響を非常に大きく受けており、彼がつくる短歌の多くには、関西弁をあえて混ぜたものが多い印象がある。

わたしはその真似事をして、自分のつくるものにも敢えて関西弁を織り交ぜ、「めっさええ奴出来たやん」とひとり悦に浸っていた。


先日のことである。

エックスというSNSにスペースという場所があり、そこで急にポエトリーリーディングをし合うという流れになった。

そこに参加した人は、みな独自の詩や俳句を作っている人で、そんなプロって訳じゃないが、そのクオリティに圧倒された。

ひとりはファンタジーの世界が好きな人で、独自の世界観を展開した詩を朗読した。

ひとりは、ステージに上がった経験もある、いわばセミプロみたいな人で、その場でお題を3つもらって、2〜3分の長さに収めるというパフォーマンスを披露してくれた。

ひとりは、文学マニアで、過去のアーカイブから自身の俳句を10個や20個も連続で読み上げ、そのひとつひとつのクオリティは高く。

わたしは圧倒されてしまった。

その場のルールとして「オリジナルのものを詠む」という縛りがあった。

どうしよう・・・わたしには、こんな本気のものに対峙できるクオリティの物は、わたしの手持ちのなかには無かった。

一応、わたしが過去につくったもので「これなら、まだなんとかお出しできるんじゃないか?」といったものを読み上げた。


極楽の、果ての果てには、屍が。なんや現世と変わらんやんけ。


わたしはわたしの短歌に自信がなくて、ダサい言い訳をした。

「いや、これははっきり言って、町田康さんのコピーみたいなもんで、語尾に「やんけ」を入れてるあたりは特に・・」

と喋った辺りで、他の人にこう指摘された。

「いや、町田康が好きなら、そこは『極楽』じゃなくて、なんかわかりませんけど『眼鏡屋』とかにした方がいいんじゃないですかね?」

そう言われて、言葉に詰まった。

確かにそうだ。


これは別に指摘されて、むかついたとか、腹が立ったとかそういうことではなく。完全に向こうの言う通りだな、と納得してしまったという話である。こんなもん、もう完敗だ。


・・・わたしはそれ以来、自分がしていることが恥ずかしいと思うようになった。

そこから短歌やそうしたものが作りづらくなってしまった。

これは悪口でもなんでもないつもりなんだけど、はっきり言ってその人たちは創作のみで喰えてないようなレベルの人である。

しかし、わたしがそこで耳にしたものは、えぐかった。

創作に本気で挑む人の覚悟が見えた。

わたしに創作は無理なのだろうか??


ここで・・・わたしと同一線上に置くのは恐れ多いというか、切腹モノの失礼なことを記すことになるのかも知れないが

こんな本がある。

種田山頭火という、自由律俳人のことを解説した本という説明であっていると思うのだが、たまたま三月に著者の町田康さんが、この山頭火について講演を行い、わたしは未だこの本自体は全部に目を通せてない状態なのだが。

本にもあるが、講演会で聞いた話がわたしには判りやすくて面白かったにで、そちらを引用したいと思う。


大正四年に『層雲』という俳誌・・・今で言うところの同人誌のようなものにあたるのだろうか。そこに種田山頭火がある人に寄せた手紙が掲載されている。そこにはこう書いてある。

私はこのところ、あまり句が作れなくなりました。句が作れないと言うことは、私にとってはむしろ喜ぶべきことです。私はしばらく、句を作る時代を通過して、句を生む時代に踏み込んだのだと思ってます。私は人に上手に作られた句よりも、下手に作られた句を望みます。たとえ句は拙くても、自己の生命さえ籠っていれば、それだけで存在するに足ると信じています。

面しさういふ句はなかなか出来ません。

原文はわたしには読みづらかったので、わたしなりに意訳をしたが、最後の一文である「面しさういふ句はなかなか出来ません。」は、自分の語彙力ではニュアンスを伝えるのが難しいと感じたので、原文をそのまま載せた。

この言葉でわかる人にはわかるのだろうけど、これをもっと丁寧に町田康さんは解説をしてくれた。


私にはこの文章はすごく重要で、自分が小説を書くときにも、これは文学上の重要な事柄だなと。小説とか創作に悩んでいる人に対して、この手紙を読み上げるんですけど・・



(上述の手紙を読み上げる)



・・・つまり作るもんやない、生むもんや、と。

わかりますか?この違い

「作る」って何が生じるかというと、そこに作為が生じるんです。

「上手に作ってやろう」という作為が生じるわけです。

たとえば、小説を読んでても「これ、上手やなぁ!」って感心するものがあります・・・「これ、上手やな」というものはあるけど、上手なだけなんです。

その「上手さを愛でる」ってことは、何なのかということなんです。


「ええなー」

「なんか、上手やなー」


・・・というのは、趣味の世界なんです。

一定のルールがあって、そのルールの中で、例えば 「どつき合いをして、どっちが勝ったか?」みたいな。

ということになったら、ルールの中でやりますから、どんどん どつき合って最終的には只のどつき合いを、みんなが見て、どっちが勝つか、みたいな。

ルールが無いとむちゃくちゃになりますから。ルールを決めて、整備して・・・それは格闘技みたいなもんになると思います。

それが発展していくとどうなるか?

どんどん洗練されていく。

踊りのようなものになっていくと思うんです。

だから、よくあるでしょ?

達人みたいなおじいさんが出てきて、「えいっ!」って言ったら、若い屈強な奴が「ああっ・・」って、倒れるような・・・・・・そんなわけ無いやろって。

あれは踊りなんですよ、言ってみれば。

だから、話が脱線しましたが、ルールの中で「上手いか?下手か?」を競っているより、もっと真実の、作為の無い、そうしたものから離れた、自然の中から生まれて来るもの。心の底から生まれて来るもの。

これが「ほんまや」ということだと思うんです。

なんか自分の心には何にも、その中にないのに、形だけ上手かってもしょうがない。

言ってみれば、魂が籠ってないと意味がないよ?、と。

だったら、ヘタでもいいじゃないですか。

「コイツ、本気で言うとんな?」って思わせるような。



それはヘタな訥弁と、なんか上手いペラペラと喋ってる能弁と、どっちがいいのかっていうと・・・・パッと見は、爽やかなスーツ着て、きっちり髪型もセットして、テレビに出ているような人が喋っているウソと、きったないおっさんが必死になって言っている真実と、人はどっちを信じるとかというと・・・・それはテレビに出ているような、きっちりした人が喋っていることを信じるんだと思います。

だけど 山頭火は、汚いおっさんが本気で言ってる訥弁のほうが信じられるやんけ?と言っているんだと思います。

俺はそれをやりたいと。

本当に出てくるものをやりたい。

上手に作ったものより、ヘタのほんまに生まれて来るもの。

つまり「作る」のと「生まれる」っていうのは、違うんです。

「作る」っていうのは人為的なもの、作為があったりする。

「生まれる」ものっていうのは、作為がないから。ほんまに生まれて来るから。勝手に。

それは、生命さえ籠っていれば存在する、そこに。

人間であれば、いいじゃないですか?

人間と同じぐらいの物量があれば、それでいいじゃないですか?

だったら、ヘタでもいいじゃないか、と。

もちろん山頭火自身は下手じゃないんですよ。

この時期の山頭火は、上手い句を作ろうと思ったら、なんぼでも作れたと思うんですよ。上手いだけの句なら。

だから、本当にヘタクソな奴がこんなことを言ってたら、ただの・・・エクスキューズにすぎませんよね?

だけど、本当にできる人がこれを言ってたら、それなりの修行も積んで、技術もある人がこれを言ってたら、その意味合いは違いますよね?

だから、この事はとても重要だと私は思うんです。


・・・と、とても引用が長くなったが、これはわたしのいつもの悪い癖です。

こうしたものを要約して、自分の言葉で伝えられたら・・・わたしは初めて創作が出来た、ということになるんじゃないかと。

そのように思っています。


町田さんのおっしゃることの上を行く言葉を書けないと思ったので、僕は町田さんの言葉を、ほぼそのままお借りしたような状態で、この記事を書いているわけですが。

さあ、何が言いたいのかというと、ほんまのもんを見てしまった気がして、おいそれとその世界に足を突っ込んでいいのか?それとも別の道を探るのか、ということを言いたかっただけです。

わたしの場合、短歌はただの趣味でやってるだけのつもりで、それらを「作品」と呼ぶのは恐れ多い。そのように思っている訳ですが、もしかしたらそれも言い訳、エクスキューズと捉える人もいるだろう。

「お前がやってんの、それただのコピーやんけ!」

そうした声が聞こえてきそう。


つまりは、ゼロイチでものをつくること、創作することに対しての姿勢というか、そうしたものをわたしも作ってみたい。という色気をいまだに
持ってはいるが、どうしたものかと困りあぐねて、そういえば町田さんがこんなことを言ってたな、と思い出し、それを何の整合性も取らず、駄文と読めるかも知れないものを、ここに書き留めた、というだけの話です。

「創作」ってむずかしいですね。

でも、やってみたいです。








この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?