見出し画像

デルタ(小説)


 僕と一緒に走ろうよ。留学生のひだりの耳の上部にひろがった、所在地のしれぬ亡命王朝の宮殿の庭であそぶ少年の声が聞こえてきた。留学生は無一文のまま、故郷へとゆく旅客飛行船に発作的に飛び乗り、一等客室の遊技場で詩の 朗誦ろうしょうを披露してお金をつくり、くにへ帰り着いた。みかどの肖像が巧みに彫り込まれたコインと自分の横顔を、空港から出るタクシーの運転手に示して乗り込むと、14キロ走ったさきで下車し、下り坂をえがいた草原に寝転んで昂揚を鎮めた。草原には、菊の白い花瓣で蝶が自慢げに はねの華麗さをひらめかせていた。青い空は心の鬱屈をなにもかも四散させる昼景色をひろげていた。
 右の方角から叱責の気配が走った。坂のうえでたちどまるなと。それは歴史の証人である 木乃伊ミイラにコインの肖像とみくらべるほどの横顔で口づけをくりかえし吸い付けしたことで死刑を宣告され3年間逃げつづけた歴史博物館の学芸員で、ローマ時代の魔術で白い蛾に変化した姿をうっかり衛兵の 焚火たきびにさらし、化けの皮が燃え尽きてしまったのだ。
 もっと走ろうよ僕と--------その声の続きが、留学生の靴の左右の爪先から、幽閉皇子をさらって逃げる者と追う者との快速艇どうしが夜の海の霧ごしに浴びせあう自動小銃の銃撃のスピードに乗り、よく聞き取れない。
 伝説の都の幻像が、その比類なく美しい輪郭を進水式のように厳かにゆっくりと、坂をくだりきって広がる水辺へと滑らせた。 


「見えざる都オバノンの物語」  
 血の修道院の踊り子のエイダは頭の中に鐘の音が夜も昼も聞こえてくることに怯える。鐘の音が止まない絶望から湖に飛び込んで死のうとするが、湖に、見えざる都
オバノンの幻像が映るのに驚く。踊り子エイダは、恋人のアデラインとともに湖の対岸にひろがる神寵の森に分け入るが、踊り子は罪の恐れから発狂して森から去る。アデラインがひとり残ると、森は形を変え、途方もない魔窟のすがたを現す。魔窟にすくう異形の鳥たちはアデラインがもうすぐ死ぬことを歌う。アデラインは悪霊の花のとげに指を刺し、その傷で息絶えんとするが、森でかつて死んだ公子の霊が現れ、アデラインの霊に惚れ込むと彼女を見えざる都オバノンへと導く。 オバノンに着いたアデラインは公子に、恋人のエイダを狂気から救うように懇願し、オバノンで永遠の生を得ることを望む。 公子は悩むが、湖のほとりでエイダが踊り、その踊りで描いたオバノンのうつくしさに心を打たれる。公子はふたりのために、メトロポリスのようにふくれあがり世界を飲み干す勢いに猛り狂った魔窟の、飢えた魔王のために霊の身をささげる。魔窟は縮小し、もとの森に戻り、公子は犠牲によってエイダアデラインが結ばれたことを知ると、霊の国から脱出し、かつて結婚を誓い合った公女と結ばれる。

 この都の伝説に惚れ込み、バレエを書きあげたのは留学生の曽祖父だった。波乱に満ちた生涯をおくり、音楽を書いたころは、イギリスからの独立闘争中の英領バミューダ諸島の要塞総督の、豪華な要塞音楽堂の一楽師だった。総督にくるしめられるイギリスの、王は当時0歳。しかし祖父の曲は要塞楽師長に奪われ、大砲の玉のカプセルに詰め込まれると夜空にうちあげられた。祖父は月面に激突し、奮起すると月の砂漠商人に転向し、武器や秘薬を売りさばいて5年がかりで財を成し、月面に王朝を築いたスルタンと昵懇じっこんになって彼の宦官師団を味方につけると隕石の流星群に乗って地球に戻り、70歳になったイギリス王からバミューダ討伐の勅命を受け、要塞と、総督の跡を継いだ要塞楽師長のむすめを撃破した。バレエ曲を取り戻し、作曲者としての名誉と、バミューダ副王の地位を手に入れた。曾祖父は数多くの子をもうけたが、彼等のいがみあいによって大家族は身内のあいだで格差を生みだし、バミューダ皇帝の僭称者を頂点に、知事や銀行総裁を輩出するその片方で、パートタイム労働者や物乞いも増やしていった。留学生はコンビニ店の家族の14男として生まれたらしいが、やしきをかまえて羽振りをきかせる徴税請負人の親族に、養子として奪い取られ、宮廷クーデター計画とその失敗に巻き込まれて家が没落すると今度は、魔法の楽器を何丁も持っているという辻音楽勲爵士の家族が彼を引き取った。音楽を習い、万華鏡のような集団飛行が語り草なコドモジュウジグンアゲハの蝶の翅からほとばしる狂気の鱗粉につつまれた漆黒の巡礼童児女児たちの先頭に立って、外国へと留学した。ところが僕はあるとき、----------------少年は、曾祖父の回想録を読むと、 仮死状態のなかで歴史を逆流した曾祖父は、時間の壁を通り抜けて幾多の世紀を行き来し、歴史の光と影の両方に棲む男女たちと、友情や家庭を築き、希臘のアトレウス家や、アイルランドの凶暴な豪族オキャロル家や、ローマ帝国ユリウス・クラウディウス家を食卓に招き、彼等の子や孫とも婚姻をむすび彼等の血筋を現代まで伝えた。 と、書いてあったのだ。---------------- 
 留学生は夢のなかでよく、独房に行く。
 僕が生まれた場所だよ、そこは。


 消防車のサイレンが、留学生の頭上を走る。
坂のふもとに広がった水平線に、軍艦牢獄の大火が聳え立った。留学生は草原から起き上がると、遠い先祖の、ネロ帝の朗誦詩人服のすがたで、朗誦し、ギターを弾いた。少年は月のうえから声を奏で月の円輪をまだらいろにもやした。








この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?