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小説『海』

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小説 『海』 あらすじ

小説 『海』 あらすじ

 【海の近くのその場所で過ごしたのは、たった二日間だけだったけれど、私にとっては生涯忘れられない想い出となる。】

 主人公 田邊茜は学生時代の文通相手だった結子が亡くなったという連絡を受け、結子が最期に住んでいたという街へ向かうため一人、旅に出る。

 そこで出会った喫茶店『海』の店主、正人と、その恋人であった結子の想いに触れ、忘れかけていた記憶を取り戻していく。

 結子が茜に伝えたかった想い

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海  1

海  1

海の近くのその場所で過ごしたのは、たった二日間だけだったけれど、私にとっては生涯忘れられない想い出となる。

その場所の離れにある小さな小屋は朽ちかけ、本家となる二階建ての大きな家は木造で潮風に当たり、一見住めるような場所には見えなかった。

本家の奥の部屋、北側の小さな物置で彼女は一人きりで亡くなった。

身よりもなく、友達もなく、どうしようもない時に彼女の机の中から私の手紙が出てきたと書かれた

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海  2

海  2

 役所まではタクシーを利用しようと駅から電話をかけた。数分後にやって来たタクシーに乗り、役所へと向かう。
 窓口で葉書を見せると、眼鏡をかけた男性は私の顔を見たあと何も言わずに奥の方へと姿を消し、しばらくしてから戻ると手紙の束を持って出てきた。
 「ご署名お願いします。それから身分証明書をコピーさせていただきたいのですが」
 男性から手紙を受け取り、免許証のコピーが終わるまで少し待つ。

 手紙は

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海  3

海  3

 ご飯を食べたあと、お風呂に入るとドアの向こうから声がした。
 「タオルとパジャマ置いとくね」
 私は少しだけ声を大きくして、答えた。
 「ありがとう、結子ちゃん」

 温めのお湯にゆったりと浸かりながら、天井を眺める。自分の手のひらをじっと見つめながら、生きていることを確かめる。
 
(どうして結子ちゃんは出てきちゃったんだろう。寂しかったのかな…ちゃんと成仏できたら良いんだけど)
 
 私の身

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海  4

海  4

      茜ちゃんへ

 こんにちは。毎日暑いね。こっちはもう夏って感じで、蝉の鳴き声がすごいし、夜はカエルの合唱が聞こえてきて賑やかです。

 茜ちゃんの住んでいる町は、どう?夏休みはどこか行くの?

 私はお母さんとお父さんと一緒に、おじいちゃんに会いに行くよ。すぐ近くの病院なんだけど、病院の近くに大きなデパートがあって、帰りにそこに寄るの。
 楽しみ!

 この間は手紙と一緒にかわいいシー

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海  5

海  5

 スーパーで買ったパンを食べ終えると、キャリーケースの中から四角い空き缶とマッチ箱を取り出す。缶は元々クッキーが入っていたものだ。

 私は役所で受け取った彼女に宛てたその手紙を、次々と燃やしていった。彼女は毎回丁寧に封筒の右側をはさみで開け、切手の部分だけを四角く切り抜いていて、その切り抜かれた切手は探してもどこにも見当たらなかった。

 手紙が灰になるまでの間、北側の奥の物置部屋の掃除をしよう

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海  6

海  6

 「この近くに喫茶店はありますか」
 迎えに来てくれた役所の男性に尋ねると、しばらく沈黙したあと海の側にある小さな喫茶店を紹介してくれ、その場所まで連れて行ってもらうことになった。
 店に着くと、お礼と別れの挨拶を交わし、車から降りて男性が去るのをしばらく眺めていた。
 
 辺りは潮風に包まれ、静かだ。海水浴場とも離れているせいか、歩いている人も地元の人なのだろうという感じで、年齢層も高いような印

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海  7

海  7

 「ごちそうさまでした」
 「ありがとうございます。今日はもう客、来ないだろうな」
 「そうなんですか?」
 「ああ、だって。みんな、家でゆっくりしているだろうからね」
 
 チン!という音が鳴るレジスターに、昔の映画を見ているようで思わず笑ってしまう。
 「これ、すごいだろ?俺も初めて見たときは笑ったよ」
 「初めて見るのに、懐かしい感じがしますね」
 お釣りをトレーの上に置くと、店主は窓の外の

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海  8

海  8

 「少し歩くから。はい、これ麦茶」
 そう言うと正人は小さめの水筒を手渡してきた。
 「お店はどうするんですか?まだお昼ですよ」
 「周りをよく見てみてよ」
 見なくても分かっている。私と正人の他には、誰もいない。

 私たちは海辺を少し散歩してから脇道に入り、草が茂った細い道を歩いた。
 「黙ってたんだけど、電話があったんだ。君が店に来る前に」
 「あ…、それは」
 「お役所の安川さんから。君を

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海  9

海  9

 
 水筒の中の麦茶は想像以上に冷たく、乾いた喉の奥が微かに震えるような感じがした。

 正人は細い道を先に進むたびに後ろを振り返り、私が追いつくのを待ってから、またゆっくりと歩き出す。二人並んで歩くことはしない。
 私は麦茶を少しずつ飲みながら、正人に追いつこうと足早に後を追った。

 それにしても、暑い。
 太陽は肌を突き刺すかのように輝き、白い雲は太陽を反射させ、大きく形を広げていく。
 汗

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海  10

海  10

 忘れていた記憶。彼女から届いた手紙を和紙で包まれた薄桃色の箱に大切に保管していたこと。

 ある日を境に彼女からの手紙が届かなくなった。はじめは気にもなったが、他にも何人かと手紙の交換をしていたので、自然に交流が途絶えることもある、ということに慣れていたのも確かだ。

 私は最後の手紙から、数ヶ月経ったある日、ゴミ袋に彼女からの手紙をまとめて放り入れた。
 特に何も感じなかった。会ったこともない

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