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私の戦争体験 ー自爆テロ、トラウマと向き合うー

・・・ドンッ!! アパートの自室で、大きな衝撃音が響いた。それが、緊急事態だということだけは分かった。窓から外を見てみると、私の住むマンションだけでなく、すべての建物が電力を失い、一瞬にして街中が暗闇に包み込まれていた。遠くの空がうっすらと赤色に光っていて、その時「自爆テロだ。」私の父がボソッと呟いた。

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左から:政府関係者を狙った自爆テロ犯行直後、軍隊員が周りを取り囲む/数分後、大きな黒煙が立ち昇る/鎮火後、車は取り残されたまま。撮影、筆者父

こびりつく恐怖心、セスナ機自爆テロ

2005~09年の4年間、父の仕事の都合でスリランカ、インドの下に位置する小さな島国に住んでいた。この時私は初めての海外で、まさかこれから戦争を経験するとは夢にも思っていなかった。

私がスリランカに移住していた期間、スリランカは内戦の真っ只中だった。2つの違う民族、シンハラ人とタミル人が、お互いの主権を訴え、お互いの宗教や文化を差別し、国土を争い26年間にもわたる内戦で対立していた(2009年に終戦)。私の目には、当時のスリランカの人々はみな、恐怖に支配され、そしてどこか苛立ちを覚えているように見えた。笑顔で街を歩いている人なんて一人もいない。現地の人々は、敵の攻撃とテロ活動に恐れ慄き、前線から怪我で帰ってくる家族や同胞を心配し、不安だったのだろう。

私はスリランカの最大の都市、コロンボに住んでいた。ある日の夜、セスナ機が私の家近くの政府ビルに墜落した。単なる事故ではなく、反政府組織が策略したもので大量の爆弾を積載した軽飛行機が政府軍の施設を狙ったテロだと間もなく知った。2機目の自爆テロ攻撃に備えて、街全体を守るために、最初の襲撃から数分後だっただろうか街全体は強制停電となり、子供と大人が泣き叫んでいる声だけが町中に響く。当時の私はその状況が理解できず、怖くて母にしがみつきひたすら泣いていた。家から出ることはできず、家族とともに窓から状況を探るしかない。私の父が情報を得てそれが自爆テロだということを聞いた。私の母は、その時の様子をビデオカメラに記録するため窓に近づく、それを見た姉は母が攻撃されるかもしれないという恐怖から「行かないで!」と泣き叫ぶ。

母が撮影したその映像を私は今でも見ることができない。それほど、私にとっては悪夢のように忌まわしい恐怖であり、今でもトラウマとして私の中に残り続けている。

不自由な生活、対テロ軍、臨戦態勢

内戦の間、街のあちらこちらでは、自動小銃を持つ対テロ軍隊員が街中を立哨していた。いつも冷静な父がその時はとても動揺し恐れていた、その理由は、軍隊の持つ小銃のセーフティロックは常に解除されていて、引き金に人差し指がかかっていつでも発砲できる状態だったからだ。幸いにも銃撃戦には遭遇しなかったが、自宅や学校など身近な場所で小規模の自爆テロ事件が頻発していたため、私の両親や周りの大人たちは、私に絶対徒歩で出かけたり、自由に外で遊ばないよう厳しく制限していた。政府軍は、反政府組織に加担する企業や外国人を探り出すために、突然、家宅捜索の目的で、数人が自宅に押しかけてきたこともあった。私は、通学する時は勿論、近くの路面店にジュース1本を買いに行く時でさえ、車で移動する必要があった。いつどこにいても気が抜けない常に息苦しい生活を送っていた。

戦争のせいで家族を巻き込んだ数々の事件や、自由が制限された生活について、今でも冷静に語ることは難しい。

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現地の日本人学校の入学式、筆者と父親

孤児の笑顔とその影

コロンボには、内戦によって多くのストリートチルドレンが路頭に迷い、生きるためにいつも物乞いをしていた。私よりも小さな男の子が車道を横切って私が乗っていた車の窓をコンコンと叩き、一生懸命な笑顔で青いいびつなトイレの洗浄剤を売ろうとする。そのときいつも私の胸は張り裂けそうになった。この子たちは、この洗浄剤で貰うなけなしのお金で、毎日を必死に生き延びているのだ。

ある日、私は両親に孤児院でのボランティア活動へと連れていかれた。戦争や貧困から親を亡くしてしまった子供たちの現状を私に伝えたかったのだろう。私は年下から年上の子どもたちまで多くの孤児と交流した。私の拙い英語でも彼らは分け隔てなく接してくれて、とてもやさしく、無邪気に笑う明るい笑顔は今でもはっきりと覚えている。でもそんな彼らの目の奥から親を失った深く暗い悲しみが感じられ、胸がキュッと締め付けられた。その時、私は戦争がいかに無意味で醜く、そして悲しみしか生まない悲惨なものだと肌で感じ、やり場のない感情に襲われた。

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孤児院に訪れた際の写真:左の青いシャツの女性に抱っこされている子が筆者。

微笑みの国、スリランカ

2019年の冬、私は10年ぶりにスリランカを訪れた。終戦から10年もの歳月が経ったコロンボの町並みは目を疑うほど変わっていた。多くの交差点には信号が整備され、高速道路が敷設され、分施設もあった広大な敷地には高層ビルや高級ホテルが立ち並び、街の発展が進んでいた。観光に訪れる人も増え、蓮の花の形をした巨大なタワーも建てられていた。そして何より私の心を動かしたのは、街の人々が笑っていたことだ。当時記憶していた悲しみ慄く表情はそこにはなかった。今や、スリランカは「微笑みの国」と称されている。そのくらい人々の顔はほころばせ、通りすがる彼らは私に優しい笑顔を向けてくれた。その幸せな事実に触れて、本当に戦争は終わったんだ、戦争が終わってよかった、またここに訪問できてよかった、と滞在中何度も何度も形容し難い感動が押し寄せ胸が一杯になった。

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夜のコロンボ市内に輝くロータス・タワー:スリランカの国花で文化の象徴でもあるハスをモチーフにしたデザインが特徴。2019年完成、南アジア全体でも最も高い自立型建築物(高さ350m)。 撮影、筆者

戦争は怒りや憎しみ、悲しみしか生まない。私も戦争についてすべてを知っているわけではないが、知識を深め、考え、そしてできることから行動することで争いは減っていくと信じている。戦争を経験したことによって私の物事に対する考え方は大きく変わったはずだ。この経験はとても怖く、幼い私に苛酷だったが改めて平和の重要さと今の日本がいかに安全で恵まれているかという事実に気付くことができた。そして私は今を大切に生きている。

さて、世界にはまだ戦争をしている国、戦争に陥りそうな国が数多くある。私たちには何ができるのだろうか。

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コロンボ再訪、筆者と母、2019年冬。

Written by

Maya Matsunaga


プロフィール

スリランカに4年間移住した経験から、外国文化や言語に興味を持ち始め、大学ゼミは国際関係学を専攻予定。戦争(内戦)を経験した若者として、戦争の愚かさを世に広めたいと思い立ち寄稿。自分の大切な人や国が崩れていくような恐ろしい未来は絶対に無い、と断言できない危機感から、私の経験を共有することで、戦争と平和に関して世の中に少しでも貢献できたらと願っている。

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