見出し画像

東京オリンピック・パラリンピック開催に感じる重度身体障害者の違和感

新型コロナウイルスの感染拡大に歯止めがかからず、東京オリパラへの風当たりもいよいよ強くなってきた。

個人的には、東京オリンピックについてははっきり言って何の興味もなく、新型コロナウイルスの感染拡大がなくても中止すべきだという立場ではあるのだが、ここではその議論は置いておく。

いや、もっと言えばパラリンピックについてもそれほどの興味はなく、テレビで中継されていてもまったく見る気がしないのだが、障害当事者である私がこのような発言をするとどうも、言葉以上の意味や重みを持ってしまうのである。

私がこの話題について常々感じている違和感の正体は、「障害者=パラリンピック賛成派」であることへの反発心ではないだろうか。

障害があるからと言って、全員が全員パラリンピックに興味があるとはかぎらない。それは、健常者の中にスポーツ嫌いが当たり前にいることを考えれば容易に理解できるだろう。

健常者に置き換えれば簡単に理解できることなのに、なぜ、「障害者」という要素がくわわると途端に伝わらなくなるのか。それこそが障害者への偏見であり、偽らざるバイアスと言えるのではないだろうか。

もちろん、私自身、4年に一度というパラリンピックの舞台に賭ける選手たちの気持ちを否定するつもりはない。だが、そのこととパラリンピックそのものを見るか否かというのは、まったくの別問題であるはずだ。

しかしながら、世間一般ではすでに「障害者はほぼ無条件にパラリンピックを応援するものだ」という認識が形成されているらしく、何かのはずみでパラリンピックを見ないといえば、「スポーツにトラウマがあるのか?」、「スポーツを覚えたほうが明るく前向きになれる」、「あなたでもできる障害者スポーツがきっとあるはずだ」など、なぜか励ましの言葉をかけられるのだ。

余計なお世話だと、ここではあえて強気に言わせてもらうことにする(Adoの気持ちがよくわかる)。

私はべつに、トラウマがあるからパラリンピックを見ないわけではない。暗い性格だからパラリンピックがまぶしく見えるわけでもない。「僕にはどうせスポーツなんて……」というコンプレックスからパラリンピックに背を向けているわけでもない。

ただ単純に個人の趣味嗜好の一環としてパラリンピックにはあまり興味が持てないと言っているだけなのに、なぜそこまでひねくれ者扱いされなくてはならないのだろう。

重度身体障害者の声にならないつぶやきである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?