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【口が裂けても言いたい話】「合法的な独裁者」

2022年新語・流行語大賞候補として、「インフィマシー・コーディネーター」がノミネートされた。ドラマや映画における性的シーンについて監督と女優の合意形成をサポートする役割を指すらしい。

またひとつややこしい横文字が増えたな、というのが正直な印象だが、実際の撮影現場に与える影響は思いのほか大きい。

それも、ネガティブな意味で。

これは私の勝手な想像だが……第一線の女優の中には、このインフィマシー・コーディネーターとやらを内心歓迎していない女優も少なからずいるのではないか。

早い話が「余計なお世話」なのである。

昭和のその昔、映画における濡れ場、性的場面は、ある意味で手探り状態……もっと言えば、無法地帯だった。

任侠映画で有名なある大御所監督は、ワンシーンの濡れ場の撮影において、女優(当時まだ10代だった)に対し、本番でいきなり着物の下の肌着を脱ぐように命じた。要するに、着物以外は素肌の状態で演じろというわけだ。

もちろん、それだけではない。その場面では俳優とのかなり露骨な絡みがあり、クライマックスで俳優の膝頭が着物の裾に割って入り、女優の股の部分に差し挟まれる。

着物の下はカメラには映らない。映らないが、肌着をすべて脱いだ状態のほうが俳優の肌が敏感な部分に触れ、生娘の恥じらいがよりリアルににじみ出る……監督の意図はここにある。

これなども、現在の基準からすれば完全に「Metoo案件」だろう。少し知恵のまわる女優(あるいはインフィマシー・コーディネーター)なら、監督に対して臆面もなく「着物の下はカメラに映らないのだから別に脱ぐ必要はないだろう」と言ってのけるだろう。

違う……違うのだ。カメラには映らなくても、カメラに映らないからこそ、こだわるべきポイントはある。先の例でいえば「生娘らしい恥じらい」であり、妥協した撮影では監督の意図を充分に反映させることはできない。

なぜ、そこまでして監督の意図が最優先されるのか。それは、撮影現場において監督が紛れもない独裁者であるからだ。そしてなぜ、監督が独裁者であることを許されるのか……。

それは、監督が作品を残すことに命を懸けているからだ。映画史上、暴君として語り継がれる監督も、恣意的にもてあそぶために女優に対し無理難題を押しつけていたわけではない。

すべては多くの観客を満足させる「完璧な作品」を作るため……その思いが共有されているからこそ、女優も最終的には監督という合法的な独裁者に従い、時として感謝するのではあるまいか。

インフィマシー・コーディネーターのパイオニアという女性は、「過激な性的場面でもきちんと合意形成がとれていれば問題ない」という。

違う、違うのだ。

ただでさえリスクのある過激な性的場面の撮影に最初からふたつ返事で合意する女優など、いるはずがないではないか。先ほど例に挙げた女優にしても、撮影当時は顔全体が火照るほど恥ずかしく、「死んでしまいたいほどだった」と語っている。

それでも、彼女は監督を信じ抜き、受け入れた。監督という独裁者にすべてを委ねたのだ。

もしも、昭和の時代にインフィマシー・コーディネーターが導入されていたなら、件の彼女はそれを強力な後ろ盾として監督と交渉し、その場しのぎの権利を主張し、自分にとってやりやすい演出へと変更させていたかもしれない。

しかし、それは映画史にとって、とてつもなく大きな損失である。そして、その「大きな損失である」という感覚すら理解できない人間がインフィマシー・コーディネーターとしてポジションを得ていることこそが由々しき問題なのである。

無論、昨今の映画界で問題となっている監督による女優へのセクハラ・性暴力はただちに排斥されるべきである。しかしそのことと、作品のための性表現を女性の権利の名の下に画一的に追放していくことは、まるで違う話なのだ。

「インフィマシー・コーディネーター?何それ、余計なお世話じゃない」

そんな女優の作品を、これからも観ていきたい。

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