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『会いたい』と『見られたくない』のはざまで揺れる

病気になって、体力がなくなって、寝ている時間が増える。食欲が落ちて、痩せてくる。

そういう自分を見せたくない、と思う患者さんは、とくに男性に多いと感じる。


堀田さんも、その1人だった。背が高くて、色黒で、寡黙。若い頃はタバコや酒もたくさんやっていたという。イメージ通りの、”いかにも”な海の男だ。

初めて入院してきたのは、食道がんが見つかって、放射線治療をするという時だった。その頃はまだまだ元気で、話しかけても素っ気なく、『説明は全部かあちゃん(奥さん)にしてくれればいいから。』と、いつも新聞を読んでいた。

放射線治療は1ヶ月くらいかかるので、退院が近くなる頃にはある程度心を許してくれていたように思う。新聞にこんなことが書いてあったとか、そろそろカレイが獲れる頃だとか、教えてくれた。

ひ孫のはなちゃんをとっても可愛がっていて、お見舞いに来ていると目尻がぐっと下がっているのがナースステーションからでもよく見えた。はなちゃんは、多分3、4歳くらいだろうか。『じぃじ、じぃじ』と甘えてくっつく様子は可愛らしかった。ご家族は車で1時間半くらいの場所からほとんど毎日、朝早くから夕方まで面会に来ていた。漁を終えた昼過ぎには、たまに堀田さんにそっくりな息子さんも来る。息子さんと話す時の堀田さんは、どこかキリッとして、『父』として家庭を守ってきたんだろうなと感じるような威厳があった。

退院後しばらくの間は、外来で経過観察をしていたのであまり会うことはなかった。ある時期から、食事が通りにくい、食べにくいという訴えが出るようになってきていたようで、栄養剤が処方されていた。

ある日、私が病棟にいると堀田さんが車椅子に乗って向かってくるのが見えた。びっくりするほど痩せていた。

『久しぶりだね』と話しかけると、『俺はもう1人では何もできないんだ。情けない・・・』と沈んだ様子を見せた。

堀田さんは”誤嚥性肺炎の疑い”ということで入院になった。食道がんでは、食べ物の通りが悪くなることがあるのだが、それでも頑張って食べようとしてムセてしまう結果、食べ物のかけらが気管に入って炎症を起こしてしまうことがある。それが誤嚥性肺炎(ごえんせいはいえん)だ。

肺炎が良くならないために絶食が続いた。放射線治療をするときに作っていた”胃ろう”から、栄養剤を注入する。本人は、はじめすごく嫌がっていたが、家族の説得で渋々受け入れた。

痩せて体力が落ちていくと同時に、放射線治療の影響もあるのか、声がかすれてかなり聞き取りにくくなった。

肺炎のほか、電解質異常 (体の塩分バランスの乱れ)、せん妄 (病気そのものや薬によって意識が混乱する状態) も生じ、だいぶ入院も長引いてしまったある日、堀田さんに、『家族に、もう来ないでくれって伝えて』と頼まれた。

『どうして?』『・・・・・・』『家が遠いから大変っていうこと?』『ちがう・・・』
沈黙が続いた。
『こんな姿、見せられない。』
堀田さんは、震える声を絞り出して言った。

たしかに、堀田さんはすっかり痩せてしまい、骨がゴツゴツと見えるほどだった。確か身長は180センチ近くあったと思うが、体重は40キロほど。声もカスカスで聞き取りにくいし、そもそも喋る体力もあまりない。
きっと昔はかっこいい海の男だっただろう堀田さんには、こんな姿を家族に見せるのが辛かったようだ。

『じゃぁ、家族の写真を飾ろうか?』『いらない…余計にさみしくなる』『おかあさん(奥さん)だけでも来てもらったら?』『・・・・・』

家族に会わないことを決めてから数日間、私は薬剤師の仕事として堀田さんの状態をチェックするとともに、看護師さんとも協力し、本心を探ってみようとした。

と言っても、別に『どうして?』とか『教えてよ』とか聞くわけではなく、ただ話そうと思える環境と信頼関係を作ろうと努力した。あんなに家族を大事に思っていて、家族からも大事にされているのに、遠ざけたままでは哀しい。

とりあえず、家族の人がしていたことをやってみる。私は、看護師さんに比べれば多少時間に融通がきいたので、新聞を読んだり、堀田さんが話したいことを聞いたりした。病室からは海が見えたので、ベッドを起こして海を見ながら話すこともあった。聞き取りにくかったので、全部を理解できたわけではなかった。

家族と会わなくなって3日くらい経った午後、堀田さんは、娘が産まれた時の話をしていた。『息子もいたけど、はじめて女の子が産まれた時は、すごく嬉しかった・・・可愛くてな・・・』少しの沈黙の後、堀田さんは大粒の涙をボロボロと流し出した。

『俺はもう長くないだろ。わかるんだ。家族にも会わなくちゃ・・・でも会うのも辛いんだ』

堀田さんは、ベッド柵に置いていた私の手を握った。『俺が死んだら、伝えてくれ、絶対だぞ。かあちゃんに、今まで苦労かけたけど良くしてくれてありがとうって、たのむ』思った以上に強い力に圧倒された。

私の経験上、死期が本当に近くなってきて気がつかない人はいない。家族が内緒にしていても、やはり自分の体のことは何か感じるところがあるのだと思う。堀田さんの場合も、家族は内緒にしておきたいと考えていて、『早く良くなって家に帰ろうね』と言っているのを聞いたことがある。

”良くなって家に帰る”

それは希望の言葉でもあるが、時に残酷な言葉でもある。死期を悟ってきている方が『少しだけでも家に帰りたい、家で過ごしたい』と思っていたとしても、『良くなったら』と言われてはどうしようもない。家族の方も、本当に良くなることを祈っている場合が多く、生きる励みにしてほしいと思って言っているだけに、なんとも哀しいすれ違いだ。

『かあちゃん (奥さん) に来てほしい』

翌日から、奥さんが再び面会に来るようになった。娘さんは、駐車場までは来ているのだが、近くの本屋やカフェで時間を潰していたようだ。堀田さんの心の準備はなかなか進まなかった。

『おとうさん、すっかり落ち込んでしまったね。どうにか元気づけたい、はなちゃんもじいじが大好きだし会わせたい。』奥さんは毎日堀田さんの手をしっかり握って話しかけ続けていた。

お互いがお互いを愛しているのに、うまくいかない。終末期の患者さんや家族と関わっていると、それなりに出会う場面だ。医療者がどこまで踏み込んで良いものかもわからず、おせっかいを言うわけにも行かず、もどかしい。

それから少しして、堀田さんの意識レベルはぐっと下がった。せん妄という状態になり、1日のうち長い時間、頭がぼんやりしていた。そうなってやっと、奥さん以外の家族と会うことを希望した。

堀田さんは、私が夏季休暇をとっている間に亡くなった。『帰ってくるの待ってるからな』と言ってくれたのが、私との最後の会話になった。

亡くなる前は、はなちゃんも含めて、本当にたくさんの家族に囲まれて、穏やかな時間が過ごせたと聞いた。私は、しばらく経ってから奥さんに電話をし、堀田さんの言葉を伝えた。

『闘病している姿を見られたくない』けれども、『愛する家族や友人に会いたい』とも思っている。こういった患者さんに、どうするのが正解なのか。医療者がどこまで”おせっかい”をしてもいいのか。あるいは、するべきではないのか。

堀田さんが残してくれた経験を生かしながら、今後ももがいていくしかない。


※名前などの細部は、個人が特定されないように変更しています


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