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【小説】ライオン・ニルヴァーナ(後編)


(あらすじ)

レズビアンであるシュンは、カメラマンであるミホの被写体として生計を立てている。過去のとある事件から鬱と摂食障害を拗らせているシュンは、謎多きSM女王様であるリョウを信仰するかのように愛し、心の拠り所としていた。病的であることを自覚しつつもそれを貫き通したいシュン、痩躯の女を撮り続けるミホ、解脱者の如き立ち位置から詰めることのないリョウ。リョウの背中に彫られた涅槃の獅子は、はたしてなにを見つめているのか。これは救済を目指し放浪する魂の物語。

(前編)





 髪はもう永いこと伸ばしている。切らない理由はちっぽけだが、僕にとってはそれがなによりも嬉しい楔だった。
 初恋の女がいた。小学校に入学した次の日、通学班の集合場所で出会った彼女とは、高校を卒業するまで一緒だった。気付いた頃にはその子のことを愛していて、いなくてはならない存在で、僕はずっとこの子の言うことを聞いて生きていくのだと思った。彼女の少し身勝手な言動は、僕を酷く喜ばせ、彼女に従うことが当時生きていた小さな世界のすべてだった。中性的ながらも整った面差しで、背が高く、気風のいい彼女は男女両方によく好かれた。彼女に思いを寄せる不届き者が現れる度、僕は様々な方法で彼女から引き剥がそうと暗躍した。僕が一番でないと許せなかった。愛していた。恋人同士になることは無かったが、それで良かった。傍にいられるだけで幸せ、というよりは、服従することに歓びを覚えていた。彼女が世界の全てだと思っているのは僕だけでなくてはならなかった。
 その彼女が徒に、「髪を伸ばして欲しい。その方が好きだ」と言ったのを真に受け、浮かれた心地を永続させた僕は髪を伸ばし続けている。そうやって操を立てていた彼女とも卒業を機に離れ離れとなり、ぼんやりと暮らしていたところを前の彼女に拾われた。と、言うよりは同じ学校に通っていた彼女はずっと僕を好いていたらしく、「どうして私の気持ちに気付いてくれないの」と泣かれ、可哀想になって折れてしまった。思えば同じ女に二度も同じ言葉を言わせた僕は最低な女なのかもしれない。
 自衛隊に入隊した初恋の彼女とは上京してからも暫く電話やメールでやり取りをしていたのだが、ある日の通話中に「親に三十歳までに結婚しろと言われている」と告げられ、その途端に僕の中でなにもかもが崩壊した……いや、突如として消えて無くなった。彼女は『普通』だと気付いたのだ。彼女は所謂『普通の環境』で育った人間であり、故に普通の人生を……逸脱するかどうかは別として……用意されている真っ当な人間なのだと、どうしようもなく悟ってしまったのだ。機能不全家庭で育った僕はその言葉に激しく打ちのめされ、身勝手な負い目から彼女を諦めた。環境のせいではなく、完全に僕自身のせいであるということは自覚したまま、その溝を埋められず僕は彼女との関わりから脱落した。僕に彼女を逸脱させることは不可能だと思ったのだ。以来、彼女に対する話題は全てシャットアウトしながら生きている。結婚することにでもなったら許せずに相手を殺しにでも行きそうだから、僕は敢えてそうしているのだ。一層のこと、死んでいてほしいとすら思っている。僕の知らないところで、事故か何かで、どうか。どうか死んでいてくれ。
 だから僕の崇拝体質のきっかけは、あの子なのだろう。彼女もまた強いカリスマ性を持ったミューズだった。あの子の影を引き摺ったまま、髪も切れず、僕はずっと停滞している。自己を覆う卑屈な殻を破れないまま、それはリョウと云う新たな崇拝対象を得ても尚、変わらずに。僕は、どこにも行きたくない。変わらないものを手にしたい。そのために崇拝を愛と代えている。いつしか両者は融け合い、つるりと球状になり、僕の喉につっかえて、時折悲しくなると姿を現し僕に自制を求める。崇拝するだけの存在なのだから、無益に感情を揺らすべきではない、と。僕にとってリョウは揺らぐことのない永遠の権化であり、凡愚な普通を匂わせないその挙措は神秘のヴェールであり、その眼差しは愛にも勝る真実を提示する永久機関だ。その内容物については、最早どうでもいい。僕は僕で、気持ちよくなれればいい。痛いのが、好きだ。
 僕の長い髪は、そんなどうしようもなさを表している。こんな人間になるに至った、歴史が詰まっている。だから切らない。切ることができない。

 大雪が降った。東京にしては、と注釈を添えたくなるのを口の中で噛み殺しながらテレビの天気予報を眺める。交通網は麻痺しているらしく、ならば積雪はどの程度のものなのかと、遮光カーテンの裾に潜った。窓を開けると湿った冷気が黒いキャミワンピの中に滑り込んで来る。何処か爽快な気持ちで見渡す景色は、豪雪からはほど遠く、しかし長靴でないと歩けない程度の深度で白く静まっていた。一瞬の晴れ間なのか、もうこれから先は晴れ空なのか、明瞭とした花色の空から注ぐ陽光が雪に照り返して、やけに眩しく、空気は澄んでいる。妙に懐かしい心地になり、胸がじんわりと痛むのは、僕が雪国の生まれだからだろうか。
 窓を閉め、冷えた身体を温めるために床で丸まっていたカーディガンを羽織る。ココアでも飲もうかとキッチンで湯を沸かしながらスマホをチェックすると、外が雪で騒がしいからかリョウからもミホさんからも連絡は来ていなかった。今日は読書ができたらいいな、と思いながらケトルの底を舐めるコンロの火を眺めていると、玄関の方でガチャガチャと鍵を使っている音がした。数秒の間の後、予想通りに、しかし予想だにせずリョウが部屋に入って来て、僕はああ、と間抜けな声を洩らす。「どうやって来たの?」
「歩いてきた」
 言いながらリョウは、買ってきたらしいカップアイスを冷凍庫に入れている。
「歩いて? 信じられない」そもそも彼女の住まいがどこか知らない癖に、そんな言葉が口をついて飛び出した。仮に数駅程度しか離れていなくても、この足元の悪い中歩いてやって来るだなんて理解不能だ。
「寒かったでしょ。今お湯湧いたからコーヒーでも飲む?」
「いんや。散歩行くぞ」それまでスヌードで覆われていた口許を指で露わにしながら、リョウは笑顔だ。相変わらず口角が僅かに上がるだけだが。「行きたいって言ってただろ」
「嘘。そんなことのために来てくれたの?」
「いいから上着、着ろ」
 急かされるようにして、カーディガンの上からコートを着込む。彼女の手によってマフラーをぐるぐる巻きにされ、玄関でブーツを選ぶ。外に出て階段を下ると、アパートの門戸で管理人が雪掻きをしていた。挨拶をして道路に出ると、近隣の戸建ての住民たちがせっせと慣れない雪掻きに勤しんでいた。慣れない、と云うのはシャベルを手にした腰つきで解る。皆、明日には腰を痛めるに違いない。
「雪、だねえ」
 そんな当たり前のことが唇を無意識に動かす。
「な、珍しいよな」
 隣を歩くリョウは、ブーツの爪先で雪を抉りながら歩く。その挙動に、雪道を歩き慣れていることを知る。
「雪の匂いがする……」
 すん、と鼻を鳴らせば、ひんやりとした空気が鼻腔を甘く擽った。ふたりの白い息が、冷えた風に流されて消えていく。小春日和とも言える陽気に、そして積雪の冷気に、背骨の底から気持ちが良くなる。そういえば、部屋の外でリョウを見るのは久し振りだ。出会った頃は外で遊んでいたのだが、僕が引っ越しをして合鍵を渡してからは僕の部屋でしか会っていない。日差しの下に晒された彼女の横顔は滑らかで、その長い睫毛は陽光を受け雪の結晶のように煌めいている。ぱさぱさの白い髪は風にもったりと靡いて、ピアスだらけの形の良い耳を珍しく晒していた。
「僕の産まれたところではね、雪かきのことを雪ほげって言うんだって」ふと思い出したことを口に出してみる。
「言うんだって、って他人事だな」
「僕はずっと知らなかったんだよ。母親が外国人で、父親は県外の人だったし……方言は覚えなかったみたい。前一緒に暮らしてた子が、教えてくれたんだ。雪ほげ。なんだか間抜けな響きだよね」
「なんか雪かきし切れてない感じがするよな。今の東京みたいに」
 言いながらリョウは腰を屈めて雪を手に取った。粗いな、と呟いて、一瞬だけ雪玉にして、直ぐに捨てる。
「冷えたんじゃない」
 直ぐに赤くなったリョウの指を見て、霜焼けでもしないかと心配する。その針金のような、或いは死んだ珊瑚のような手指は、彼女の特筆すべき徴だろう。優美なのに丸くなくて、骨々しいのに繊細だ。黒く塗った爪が、そこだけマットな吸光を示していて、だからか彼女の手は白いと言うより無彩色な印象を受ける。しかし今それがほんのりと血色を滲ませているのが妙にアンバランスで、一層のこと彩色がなされた彫像のようだ。
「つめてーな。触るんじゃなかった」
 言いながら、リョウは僕の手を取った。どきり、と心臓が割れそうに軋むのに、外皮は茫然としたままノーリアクションだ。暫くその繋がれた手を注視していると、半歩前を歩いていた彼女が振り返った。
「どうした?」
「いや……とても、意外で、頭が真っ白ですね。外でって初めて……」
「だったか? 初心だねえ。可愛いねえ。ちっちゃい子みたいだねえ」
 リョウの茶化すような声に、少しむっとする。
「うるさい……あー、外で、こんな大人の女同士で、いいのかな」
「関係ねーよ。お前も俺も、男でも女でもないし、男だとか女だとかは関係ねーよ」
「それは、呪い?」ふとミホさんの言葉を思い出す。リョウも僕より年上だ。
「世界の決まり」
 風を受けるリョウの髪が、僕の顔に掛かる。その合間から見えた白い太陽は、虹色の光輪を纏って、まるで宗教画のような精緻さを帯びて鎮座している。地球外の、僕のあずかり知らないところに浮くもの。フィクションとしか思えないそれが、今僕の中に降りてきて、目の奥がぱっと弾ける。何かを視た。きっと神だ。そして今傍らにいる彼女は、矢張り、神だ。視神経が千切れそうな程に眩しい無彩色。覚えがある。彼女の背中のライオンだ。

 独房みたいな部屋に立っている。コンクリートが打ちっぱなしのその薄暗い部屋には簡素なベッドがひとつ。その上にはアイアン製の骨組みが取り付けられており、赤いレースの天蓋が垂れ下がっている。ぽっかりと四角い孔が空いているだけで硝子もない窓の向こうの、曇天に晒された先に廃墟のような四角い建造物が乱立していることで、この部屋もまたその一角に存在していることが推測できた。部屋をぐるりと見渡すと、部屋の端に洗面台があることに気がつく。近付いてそのひび割れながらもぴったりと透明な鏡を覗き込むと、痩せた女とも男ともつかない人間がひとり。胸元に浮いた肋骨で、おおよその体重が予想出来るのは、それが僕の身体だからだ。目を凝らせば、見慣れた己の顔に見えなくもない。つい癖で、着ていたワンピースを脱ぎ鏡に身体を映す。すると僕の腹と云えば風船のように膨らんでいて、それはまるで妊婦のようで、唐突に義務的な吐き気を覚えて腰を折った。しかし嘔吐いても喉奥からは不快感が漏れ出てくるばかりで、肝心の内容物は出て来ない。吐けない恐怖に動悸がする。胃に何が入っているか解らない不安を押しのけ、口腔内に指を突っ込むと、からんと音を立てて洗面器に単一形の乾電池が落ちた。まさかの無機物に慄いていると、腹部の痙攣に押し出されるようにして螺子やらライターやら画鋲やらが吐き出された。口の中に広がるのは、胃液とパライソの味。暫く無心で無機物を吐き出し続けたのち、顔を上げて鏡を確認する。平坦な腹部に安心し、蛇口で手と口許を洗って赤い天蓋の下、白いリネンの上に倒れ込んだ。仰向けの視界に、カメラのレンズが見えた。天蓋から生えているのだろうか。シャッター音がする。そこで僕は、服を着ていないことを思い出す。

 程好い倦怠感を纏ったまま浅い眠りの縁から引き上げられ、今みたばかりの夢の話をすると、リョウは「邪魔なもの全部吐き出したんだな」と言ってグラスに注いだウイスキーを舐めた。僕は話しながら作ったパライソリッキーのグラスの側面に浮いた水滴を、指先でなぞって遊びながら、彼女の見解を聞く。ピロートークの心算だったが、何故か飲酒へと延長して、それは僕を愉快な気持ちにさせた。事が終わって眠るばかりがセックスじゃない。
「きっとお前の中には訳の解らんガラクタばかりが蓄積されてて、それらをいよいよ吐き出したんだよ……夢の中でだけどな。夢のことは良く解らんけど。見ないし。夢占いもフロイトも知らん。でも俺は怖い夢とは思わないな。吉夢だと思うよ、知らんけど」
 知らんけど、はリョウの口癖だ。会話に対して決して責任を取ろうとしない、そんなところにも僕は好感を抱いている。
「お前は言葉を重んじすぎてがんじがらめだからな」
 グラスを持った手指の中で、人差し指を此方に向け、リョウはふん、と吐息だけで笑った。
「言葉なんて、そのままの意味で受け取ってりゃいいんだよ。深読みやら行間なんて考えるだけ無駄なんだよ。お前はいちいち言葉を選んでて、そこは偉いと思うし、続けりゃいい。お前のいいところで、綺麗なところだからな。受け取るときだけでも適当にやっとけ。どうせ大半の人間に他意も中身もねえから」
 珍しく饒舌な彼女の睛に、キャンドルライトの粘度ある光が照りつけて金色に見える。柔らかく柔和な雰囲気なのに、そこだけ切り取ったかのような鋭さで薄闇に浮くものだから、僕はグラスに口を付けながら恐る恐るその輝きを盗み見る、それ以外の動作を奪われたままになる。眩しさのあまり卑屈に拍車が掛かりそうなのに、どこかで浄化されていると感じるのは、その面差しに静謐と云う言葉を当て嵌めているからだろうか。矮小な自己を照射する神の目。神に認められて初めて輪郭を得る肉体。それはセックスより生々しく明らかで、僕は彼女のせいで何度も生誕する。彼女に繰り返し調伏され、生物としてのエピソードを得て、僕ははじめて人間だ。

 不味い薬の味に慣れず、液状のそれを飲むたび疲弊している内に、指定された容量を守るどころか飲むこと自体を放棄し始めていた。細長い袋状の容器に入ったその薬は飲むのに吸い上げる必要があり、一気に口内を満たす何処か無機質を連想させるような、人体に取り込んではいけないと感じさせるきっぱりとした金属味が味蕾に拒絶反応を催させる。飲後も後味は最悪で、直ぐに水を飲んでも暫くは不快感が続くそれを、朝と夜に飲まなくてはならないことに苛立ちを募らせていたら、いつの間にか薬入れとして使っているクッキーの空き缶を開けることすら億劫になり、やがて失念し、緩やかに断薬する結果となっていた。
 薬の喉越しは、精液に似ていた。非常に不快だった。おぞましかった。精液は飲み物ではないのに、飲ませようとしてくる男の多さを思い出し、世を憂いていた。男を呪っていた。精液は飲み物ではない!
 そんなことばかりを考えていたせいか精神状態は悪化の一途を辿り、僕は再び外出ができなくなっていた。リョウの存在に慰められていたのに。その言葉に一縷の光を見たのに。そんな嫌悪感はじわじわと夜の寝床で牙を剥いて、ひとり静かに枕を濡らしては何度も枕をひっくり返した。断薬はいけない。しかしきっぱり断薬ができない自身の弱さにやきもきして何度か叫んだ。床にひっくり返って嗚咽を噛み殺した。気分の波は目に見えるようで、それらが描く波形の不規則な並びの、その美しくなさに手足を掻き毟った。静かにしていたいのに、波打つ黒い紐が脳裏にちらついて、それらが僕の不完全さを図形としてきっかりくっきり表してくれているお陰で、中々正気に戻れなかった。数日の錯乱の中で、途方に暮れるほど永く感じられる時間の合間で、僕はリョウの波形グラフを思って平静を取り戻そうと試みた。彼女のそれは、思うに波形ではなく一本の美しい線だ。心停止のように、ピアノ線のように、張り詰めていて、なのに穏やかだ。どんな喧騒に触れてもなお揺れることのない一本線を夢想するたびに、一瞬怒りが和らいだ。悲しみは消えなかったが、生臭い液体を射出する生物に関しての思考の掘り下げは中断された。束の間の休息を断続的に享受していると、その何度目かの静寂にスマホの通知音が鳴るのを聞いた。

 待ち合わせ場所は家の近所の、チェーンの居酒屋だった。奥の席にミホさんがいるのが見え、近付くと彼女の向かいには白髪の中年男性が座っていた。ミホさんの隣に腰を下ろし、ビールを注文する。イワオと名乗ったその男の年齢は五十代くらいだろうか。目尻の皺が柔和そうな雰囲気を醸した恵比寿の様な男で、若い頃から八ミリフィルムで自主制作映画を撮り続けているらしい。ミホさんの知り合いと言えど、僕は久々に目の当たりにした個人の男を前に普段よりも更に口数が減っていたが、彼の目的が僕を主役にした映画を撮りたいということだと解ったとき、その意外性に思わず肴を突いていた箸を置いた。
「愛すべきフィクションには大抵、黒髪の、小造りな美貌と白い肌の、厳かな美少女が出てくる。少女の挙措には違いはあれど、皆己の容姿がどの程度のものか、どう使えるかをを知っているんだ。自信とそれに因って得た悟りに裏付けられた翳りで、少女の美貌はより一層人々を狂わせる。そしてそう云った少女には、未だ初潮は来ていない。女じゃない。……ミホちゃんの写真でシュンさんを見て、僕は魔女っぽいと思った。そして今言ったような、物語の登場人物のイメージそのままだと思ったんだよ」
 彼がヒロインと云う言葉を使わなかったので、僕は少し好感を持った。オジサンともなれば性的にガツガツしていないだろうという思い込みもある。簡易な作りの台本を眺める僕の隣で、ミホさんは嬉しそうに僕のことを語った。そうして初めて、彼女が僕のどんなところを気に入っているのかを知ったが、まあ予想通りだった。そしてそれはイワオさんの意見と合致していた。僕は僕の、創作上ではありふれている属性を知っていたので、特に傷付きはしなかった。
「ミクモちゃんだっけ? ……シュンさんは、あの子によく似ているね。造形と言うよりは、雰囲気が」
 ふと、イワオさんがそんなことを口走った。一瞬にして、ミホさんの前のミューズなのだろうということは容易に想像ができた。
「僕もちゃん付けでいいですよ」そう返しながら盗み見たミホさんの横顔は、普段のそれと変わらない穏やかさで以て手元の小皿に乗った蛸の唐揚げを注視している。繕っていることは察せられた。しかしその理由が何なのかは解らない。
「お人形さんみたいな子が好きなんですよ、多分」
 ミホさんはそう答えて、日本酒を啜った。
 台本は台詞が少なく、覚えやすそうだった。ミホさんはマネージャーのつもりなのか、受けるなら撮影には付いて来ると言う。ならば安心だと思って、僕はその場で快諾した。と、言うよりはなにも考えていないに等かったが、することもなく毎日が平淡なのも、恐ろしい。寝て、起きて、食べ吐きをして、時間を潰してまた眠る。そう云った無為の繰り返しは、心を軋ませる。起きている状態が憂鬱で怖くて薬を飲む毎日なのだから、やることがあるならそれに越したことはないだろう、という動機を瞬時に組み立てて、僕は浅はかに安堵した。
「人形といえばね。僕の知り合いに人形作家がいるんだけど、あれは神だね。神の所業だ。作品には魂が宿っているように、僕には思えたね」
 イワオさんはそう言って鞄の中から取り出したタブレットを操作し、彼が撮影したというその人形の写真を見せてくれた。赤い襦袢を羽織っただけのその人形の、青白い躯体は鳩尾の辺りで分割し、ベルメールのそれのように臍を伴った球体が嵌め込まれている。その部分さえ隠せば人間と見紛うような精緻さに、その潤んだ硝子の睛に、僕は却って人形らしさの極意はこの球体の腹と定義したいと思った。綺麗な顔も長い髪も関係ないと信じたかったが、他のふたりは僕に似ていると言って嬉しそうだった。僕はふと、そのミクモという人も人形に似ているのだろうかと考えて、すぐに止めた。なぜだか鳩尾の辺りがきゅうと痛んだ。
 撮影は二週間後だという。イワオさんのホームページのアドレスが記載された名刺を貰って、ふたりとは店の前で別れた。アルコールで歩くのが億劫だし、食べたものを吐きたくて堪らなかったので、駅前のロータリーでタクシーを拾った。発車してから少ししたところで男の運転手に「モデルさんみたいですね」と話し掛けられ不快な気分になり、無視して行き先を自宅前から少し遠いコンビニに変更した。

 追加で胃に押し込んだ簡素な食事を便器にぶち撒け、手指に付着した粘液をトイレットペーパーで拭うと幾らか気持ちが落ち着いた。一度水洗レバーを回し、ペーパーで便座を簡単に拭いて掃除をし、二度目の洗浄音を聞く頃にはすっかりと躁状態に足を踏み入れていたが、この爽快感の由来が全く不明なことに不安感を覚え、それを探ろうと思考の深いところに潜ってしまってから口惜しいことにも普段の抑鬱状態へと逆戻りしたようで、相変わらずの鈍い憂鬱感にベッドに埋もれることとなった。憂鬱なことが悲しかった。悲しく思うことが憂鬱だった。心臓の圧迫感に膝が折れることを許容し難く、幾粒か涙を零した。
 一個人として認められることを求めて被写体業を始めたのではなかったか。しかしそこから派生した『映画に出演する』という行為に得体の知れない怖気を感じるのは、動いて、生きて、呼吸に胸を揺らす自分の姿を、第三者目線で見たことがないからだろう。
 イワオさんからのメッセージに震えたスマホを手に取り、悲嘆にすうすうと沁みる鼻腔を慰めるため煙草に火を点ける。煙を吸い込むと、先程爪で傷付けたのか喉の辺りに金属味がひりついた。
「恐れるな……」
 どこか厳かな気持ちでそう呟く。描く富士を貧しくしない為の準備を、僕はこれまでの人生で積み上げて来られただろうか。痛苦だけを空疎に孕んだだけの人生ではなかったか。思い返そうとすると、矢張り膝を抱えたくなる。そんな自分に鞭打つように被っていた毛布を蹴飛ばすと、床に放ってあった鞄から貰った台本を取り出して開いた。前頭葉の辺りがぬるぬるとして文字が上手く読めない。しかし文字の発音は知っている。口に出す。
「……チャペ」
 主人公の名前だ。
 これは恢復の物語だ。

 チャペとは、アイヌ語で猫を意味するらしい。きっとこのチャペは黒猫に違いないと確信しながら台本を読み込んでいく。或る男の前に唐突に姿を現した少女チャペは、追い掛けて来る男を嘲笑うかのように軽やかに逃げ回る。日常のひとコマを。夢の中を。或いは男の記憶の中を。歴代の『彼にとってのヒロインたち』に擦り替わり、成り代わりながら逃げる彼女はきっとファム・ファタルに違いない。仔猫のような無邪気さで以て、平然と、笑顔で、女は世界を歩き、駆け回る。思い出を塗り替えながら。彼女はヒロインたちを消してしまったのだろうか。それとも最初から総ては彼女自身だったのだろうか。群像劇の最後を締めくくるチャペの章は男の膝で丸くなる少女のカットで穏やかに終わりを迎える。最後の瞬間に目を見開くチャペの意図するところは、きっと誰にも解らない。

 撮影までに減量しなくてはと思っていると、案の定リョウが姿を現した。彼女の手土産のカップアイスをふたりしてつつきながら先日の出来事を話していると、リョウはなにかが可笑しいのか単純に微笑ましく思ってくれているのか、薄っすらと笑みを湛えているようだった。その横顔の美しさにはっとさせられ、ついその後背に後光を探してしまうこのどうしようもない思慕の裏側にこびりつく独占欲が、彼女から透け見えていてもいなくても、最早どうでもよくなっていることに内心驚いている。これは自己からの解放なのか、信仰への埋没なのか。僕は何処へ向かって歩くのだろうか。
「シュンは、自分が生きてるって気付いたほうがいいぞ」
 リョウはそう言って、胡坐をかいていた長い脚を組み替えた。
「リョウは気付いたことあるの? 自分が生きてることに」
「ああ、あるな。そういえば」
「提案した癖に、自分に親身じゃない言い方だね」
「気付く手段が荒っぽかったからな。死にかけただけだけどな」
 それ以上の追及を、拒否しないことで追及させない声音に、却って穏やかな心地にさせられる。僕はリョウの総てを知りたいわけではないのだと改めて思わされながら、彼女の手遊びする指先の行方を目で追いたくなる。彼女の過去には興味がない。でも、未来は?
 なにか恐ろしいものに触れた気がして、はっと短く息を吸い込むと、リョウは過呼吸かい、と優しい声を出して僕の背中を擦った。

 生きていると実感するのは、いつだって己の肉体の存在を知覚するときだと思う。外界を見分けるときではなく、肉にうずもれた生存本能に触れるとき、人は無防備に個を自覚し、また見失う。自分の身体だけが感じている痛苦を尊ぶ心。人間のうちのひとつでしかなかったと云う落胆。特に僕は、生殖行為にぶち当たると、『ぶち当たったと思う』と、生を実感する。そして、性を軽蔑する。性欲の及ぶところにある愛情に価値を見出せない。男と女。女と女。男と男。その他無数の性別も。セックスを求めることに対して理解が及ばない。生殖は理解できる。動物の交尾も、植物の交配も理解できる。両親とは違う遺伝子型の個体を生み出すことも、親と同じ染色体を同数持つ個体を生むことも理解できるし尊びたい。しかしセックスだけが解らない。孤独や寂しさ、誰かと一緒にいたいと云う気持ちにだって同感できるのに、セックスにはなかなかどうして、寄り添いたくない。
 なにがあったの、と他人は問うてくる。なにもない。性欲に加害されるよりもずっと前から、僕はこういう考えだった。
 しばしば性欲は、人間らしさ、人間臭さに置き換えられる。創作ではセックスの描写で物語に深みが加わると思われているような節がある。そんなことがあってたまるか。学生時代はそんな呪詛を吐きながら活字を喰らい、理解したふりをした。しかし消化不良を起こし不快感にうんうんと唸る夜を越える度に、嫌悪感は増していくばかりだった。
 セックスは、大人なのだろうか。セックスは、人間なのだろうか。セックスは、生きているということなのだろうか。
 僕はもう大人の人間で、まだ生きている。

 撮影初日は、白い空の曇りだった。家の前まで迎えに来てくれたイワオさんの車に乗せられ、後部座席でミホさんと並ぶ。痩せた? と声を掛けてくる彼女に首を傾げてみせつつも、内心は今朝の体重計が示した値に浮足立っていた。ここ最近で、一番軽い。それだけの事実がとても大きく希望に満ち足りたものに感じられる。例えば自分の実力が誰かに認められたような、そんな世界に承認されたような心地は、僕はダイエット以外で味わったことがない。
 移動中、車酔いをしないように気を付けながら再度台本に目を通す。どこにもそんな描写はないのにチャペがガリガリに痩せていると思い込んでいるのはきっと僕だけに違いなく、作り上げた痩身は空っ風に耐えるための厚着の下だ。誰にも見えない。しかし誰かが手首の細さや肩の薄さに、僕と云う人間の余地に気付いてくれる筈だと信じている。万人に愛されることは望んでいないが、誰にも目視されず生きることも望んでいない。チャペの向こうにうっすらと燃え上がる僕が、その焦げ臭さが、冬の風に乗って僅かに届けばいい。向こうでなにかが燃えている。そう誰かが気付いたとき、僕は自分が生きていることを知るだろう。

 某市にある広い公園で撮影は始まった。この間の大雪の名残の散らばる茶気た芝生や、常緑の樹々の暗い緑を見ていると地元の鬱屈とした冬を思い出すようだ。しぶとい生木が僅かに土を香らせて、この薄ら寂しさの中でも焦土ではないということを主張している。
 流浪の民のように、チャペが歩いてくる。そして第一声を発する、「おなかすいた」と。
 痩躯の少女にそんな欲求があるとは思えない。実際に僕はやる気のなさそうな、ぼんやりとした発声を心掛ける。実際に僕の口癖でもあるその中身のない言葉。おなかなんてすいたことはない。でもいつも空腹を覚えている。空疎の中を彷徨い歩く僕の心象風景は、きっと温暖な大地の上ではない。萌える緑も熱砂も鮮やかな空も遠い遠い不毛の地だ。
 仔猫ごときが何を知るのか。しかし彼女は男の伸ばした指をすり抜ける……妥当だ。この物語の男は、一人称視点。つまり演じるのはイワオさんで、中年男性だ。優位に立っているのは絶対的にファム・ファタルの方であり、それが覆ることは有り得ないからこそ、物語は成立する。僕が安心していられる。

 場所を変え細かな撮影を繰り返し、初日の撮影を終えると三人で居酒屋に入った。乾杯をし、料理をつつきながらもイワオさんはカメラを回している。ミホさんもイワオさんの側に座っているので気恥ずかしいが、気にしないで普通にしていていいと言われていたため、何時もの調子で酒を煽り、料理のカロリーを脳内で計算する。
「人形、持ってたよねシュンちゃん」
「ああ、持ってますよ。男の子を何体か」
「女の子が好きなのに、男の人形なんだね」
「男の人形はなにもしてこないし、女は人形にしたくないから」
 しかし僕の持っている少年人形は、皆女物と言われるような服を着せている。顔は男女共用なので、脱がせなければ性別なんて解らない。
 倒錯しているとは思わないが、他人にどう思われようがどうでも良かった。聞けば、リョウも少年人形を複数体持っているらしい。理由は綺麗だから、だ。僕たちは美しいものにしか興味がなく、ただ理由なんてそれだけなのに。人形に限らず、多くの人は所有に生臭い理由を求めてくる。好みのタイプなのか、性的に興奮するからか、誰かの影響なのか、誰かに見てもらいたいのか……理由ばかり求めて本質を見ようとしない。本質があることを頑なに信じようとしない。性が根源にあると信じてやまない。特に、女のすることに。本質なんて表面にしか存在しないのに、何も見ようとせず、盲目にいやらしさを押し付けてくる。
「ミクモちゃんも人形持ってたよね、確か」
 ふと、イワオさんがそう口にしたので、思わずそちらを見る。その瞬間彼が息を飲んだのが解った。
「今の顔、すごく良かった。必ず入れよう」
「どんな顔してましたか?」
「なんというか……目が光ってたよ。鋭くきらりと」
 満足げな顔をして、イワオさんはカメラの電源を落としたようだった。

 帰宅し、胃に入れた僅かな酒菜を嘔吐すると、明日の撮影に差支えないよう首筋にリンパマッサージを施す。右手の吐きダコが濃くなったように感じられ、そろそろ左手と交代すべきかと考えていると、ふと摂食障害仲間だった子のことが思い出された。彼女は過食と過食嘔吐を繰り返すタイプで、吐くコツやアフターケアについて教えてくれた。
 吐きダコ防止には薄手の使い捨てビニール手袋が良いだとか、スランプに陥ったらラップをぐるぐる手指に巻きつけると良いだとか、チューブを突っ込むのが一番楽だとか、そんな非生産的なことだ。しかしそう云った同じ病を持つ者同士の情報共有そのものに孤独を和らげる作用があったように思う。彼女はある日結婚すると僕に告げ、それきり連絡を取り合わなくなった。
 愛する人がいれば病気は治るのだろうか。孤独は和らぎ、ご飯は美味しく、夜は眠れるようになり、朝には起きられるようになるのだろうか。それを陳腐だと言って切り捨てたい気持ちと、どこかで待ち侘びている気持ちが胸に疼痛を滲ませる。途方に暮れる。健康になりたい。人間になりたい。誰からも選ばれないに違いないと云う自棄を、努力不足だと私が指をさす。僕の中のもうひとりの僕はいつだって僕に親身ではなく、彼女が厳しい口調で発するハラスメントの数々が精神を圧迫する。消えてしまえと願っているのに、それは叶わない。解っている。叶えたければ僕が僕の身体を殺すしかない。
 もうひとりの僕を扼殺する妄想を済ませたあと、キッチンの冷凍庫を開けてみる。増殖していくカップアイスは、冷凍庫の殆どを占領して整列を成している。そのうちのひとつを手に取って蓋を捲る。冷気に白く煙るその表面に舌を伸ばし押し付けてみれば磁石のように両者は一瞬だけくっ付き、直ぐに離れた。滑り気を帯びるイチゴ味の赤と白の斑紋。

 朝になり、昨日と同じ時刻に迎えが来た。今日はチャペが逃げ回るシーンの撮影だ。前作までのヒロインとの思い出の地で、彼女らと同じ場所に立って、同じマクガフィンを手に、男の記憶を混濁させていく。詩集を手に。ウイスキーの空瓶を手に。同じベンチに腰掛け、同じトンネルを駆け抜ける。
 事前に視聴したその作品群のヒロインたちは、皆、腹から声が出ていた。はきはきと聞き取り易い声で喋っていた。劇団員だったりするのだろうか。僕にはそんな声を出す余裕も心算もなく、仔猫はぼそぼそと言葉を紡ぐ。腹にはミルクの一滴も入っていないとでも言いたげに。
 小春日和の穏やかな陽気の中、少女と男は海辺に辿り着く。最初のヒロインと一番はじめにここに訪れたことを思い出した男の膝で、仔猫は丸くなる。「もう、満足か」チャペが問う。頷いた男がその小さな頭を撫でようとしたとき、彼女はかっと目を見開いた。

「再現劇は人を救うと思いますか」
 短い撮影のすべてを終え、前日と同じく居酒屋で打ち上げをしている中、僕はイワオさんにそんな問い掛けをした。チャペを通して、男は何を見て何を感じるのだろう。完成した映画を観たら理解できるのかと言えば、きっとそうではないだろう。
「僕は救われたかな」
 イワオさんは穏やかな眼差しを以てそう答えると「あの日の自分の気持ちに親身になることが大事だよね」と続けた。
「再現したくないことばっかりで、人生嫌になってます」
「君は、ねえ……仕方ないさ」
 今日は隣に座っているミホさんの口調に、リョウのそれを見出した気がして、そんな現象をどう捉えたらいいのか解らずに口を噤む。
「辛かったとき、自分がしたかったことって大きな鍵になるんじゃないかな」イワオさんが言う。
 僕がしたかったこと。一瞬だけ考える。
「僕の追体験をさせるために。男を生きたまま殺したい」侵犯者が罰を受けないだなんてことは、あってはならない。「殺した、かった。なあ」
「再現は、難しいねえ……」
 僕を労わるような声でイワオさんはそう言うと、他の方法があるといいんだけどね、と呟いた。彼はミホさんから僕のことを色々聞いているのだろうか。そう感じもしたし、そうでないようにも見えたが、どちらにせよ彼の反応のくどくなさは好ましく思えた。
「それは、悲しみとか怒りとか、そういう感情?」ミホさんが問うてくる。
「怒りが近いのかも知れないけど、殺意って、殺意という感情なんだと思う。喜怒哀楽殺意。あのときの僕は黒い塊だった。ただそれだけの感情しかなかったかな。あんまり思い出したくないから、よく解らないんだけど」
 否。僕は何時だって考えている。あのときのことを。その度に黒い塊になって、熱を帯びて、重量を増して膨張していく。
「いつか、楽になるのかな」
 希望的観測をして、すぐに打ち消す。「そうは、思えないけど」
「無かったことには出来ないからねえ、過去は……」
「見ないようにすることは出来るけどね」
 イワオさんの言葉に、ミホさんが続いた。人には大なり小なり辛い体験があって、皆どうにかこうにか乗り越えてきたに違いない。仲間と情報や感情の共有をして苦痛が和らげばそれでいいのに、今がそのときかも知れないのに、黒い感情は膨張を止めない。ひとりぽっち、取り残された気分だ。さっきまで僕は奔放な猫だったのに、今この瞬間、孤独が怖い。

 
 独占欲と云う言葉の語感で強くなった気がしていたのは、己の若さのせいだろうと予想していた。そうやって客観視しているというポーズを取ることで第三者から叩かれないように受け身を取っていたのかもしれない。只でさえ生殖をしない人類というので後ろ指をさされているのにこれ以上は煩わしい。誰からも切り離されたいのに誰かが必要で、誰かひとりでいいから自分の生きているところを見ていて欲しくて、狂おしさに奔走する魂が、俗世から離れたいと泣き叫んでいる。魂ばかりが先を往き、身体は凍えんばかりの憂鬱に停滞している。若さのせいだ、と人は言う。若さのせいだ。解った。それでいい。それでいいから、どうにかして欲しい。時が解決してくれるというのならその保障をくれ。

「映画の撮影をしました。個人制作でこぢんまりとしてて楽しかったです」
 先日の出来事を報告すると、先生は「映画ですか」と頷いてタブレットに書き込みを始めた。プラスチック製のタッチペンが立てる軽快な音が静かに響く。
「撮られる側ですか?」
「はい。主役なのかな。主人公と主役の区別はいまいち解らないんですけど、登場人物はふたりだけって言うか。友人の紹介で知り合った人が僕がいいとのことで受けたんです」
「どんな役でしたか?」
「逃げる猫の役でした。猫は女の子の姿をしていて、男の記憶の中の女性たちに擦り替わって男を混乱させるんです」
「楽しかったのなら良かったですね」
「はい。貴重な体験だったと思います」
「食事はどうですか?」
「吐いてます。でも最近は過食嘔吐をしようとコンビニに行くと、棚が怖いんです。高い棚を見ると地震が来ているんじゃないかって、揺れているんじゃないかって思い込みで酔っちゃうみたいで。怖くて手足が震えて、吐き気はするわで、食べる気が失せて何も買わずに店を出ることも多いですね」
「……体調はどうですか」
「よくわからないです」
「眩暈はコンビニでだけですか」
「それ以外であんまり外出してないので……ああ、家でもたまになります。ゆらゆらします」
「車酔いのような感じですか」
「ああ、ちょうどそんな感じかもしれません」
 漢方薬が追加された処方箋を眺めながら、薬局までの短い道程を歩く。どんどん自分の話し方がゆっくりになっているように感じる。脳の何処かが凍結しているような感覚は、自信を喪失させる。折角頑張ろうと思えたのに、身体が、メンタルが、ついていかない。頑張ろうと俄かにも奮起したのは、果たして僕の内のどの部分だったかが思い出せない。
 帰りの電車内で薬の説明が書かれた紙を読もうとして、ふと止める。ミホさんが薬について検索してはいけないと言っていた。自分のことを深く知りたいような、知りたくないような、そんなかすかな欲求めいたものは直ぐにふつりと治まり、灰色をしたビニール袋に紙を戻すと、首に巻いていたスヌードに口許を埋めて目を閉じた。

 ミホさんは僕の身体を通して何を見ているのだろう?
 彼女というフォトグラファーの強みについては彼女のインタビューや批評を見ていればなんとなく理解できるような気がするものの、そこに僕が介在する意義については、未だ見出せない。なので、聞いてみることにした。
「窓みたいなものじゃないかな。私はファインダー越しの世界、みたいなポエミーな創作にはあまり、興味が無いんだよ。誰かを通して東京の街を見るのが好き。どちらかと言うとファインダーは被写体さんたちであって、カメラはそれを都合よく切り取るだけの装置って認識。……シュンちゃん越しに見える東京はいい感じ。ご都合主義にはならない。サバンナみたいな。一瞬にしてすべてのネオンが消えて、真っ暗になって、ぜんぶ終わり……っていうのを予感させる」
「風前のともしび?」僕は問う。
「夢の終わり」
 そう答えて、ミホさんは煙草に火を点けた。深夜の新宿二丁目は、眠らないくせにどこか落ち着いている。ビアンバーでは軽く飲んだだけなのに、ミホさんは酔っ払っているようで、よっこいしょ、と大袈裟に呟いて、大きなリュックを地面に置くと、カメラを取り出した。レンズキャップを外し、指先で設定を弄る彼女の、ほんのりと赤い俯き顔は、陽の下で見るよりも綺麗なのに、年相応に見えた。
「酔っ払いに、インタビューなんてしちゃ駄目だよ。饒舌になり過ぎるからね」
 ミホさんの咥えた煙草の灰が、一センチよりも長くなる。僕はコートのポケットから携帯灰皿を取り出すと、彼女の口許に持って行った。あひはほ、とごにょごにょ言って灰を落とし、曖昧に笑うのがどこか面白くて、僕も笑う。ふっと声が出て、それがニヒルだったのではないかと自省して口を噤んだ。するとミホさんは煙草を唇から抜き取り、今度は大きく笑った。あはは、と愉快そうな声が路地に響く。
「そういうとこ。笑顔がすぐに真顔に戻るの。生きづらいでしょうよ」
「それ、褒めてんの。貶してんの」
「撮る分には都合がいいけど、友人としては可哀想だなって思うのよ。かわいそうにねえ」
「あんまり、可哀想って感じには聞こえないんだけど」
「敢えてそうしてるからだよ」
 カメラがこちらを向く。ぱりっと音がする。微調整をしているのか、ちょっと待って、という声。カメラを構えた片手が、指差す。そちらを向く。「もうちょっと下向いて」「目線はこっち」ばちり、と大きな音。光。まばたきを危惧して大きく目を開く。明滅の残像で頭がゆらゆらとする。薬を飲もうかどうか迷っているうちに、撮影が終わる。
 カメラを下げたあとの、ミホさんの震える睫毛に過去の喪失を夢想する。その思慮深い挙措に時折ちらつく、どこか人生を諦めているような微弱なシグナルを、僕は親近感を以て、誰かに宛てられた文なのだと理解していた。どこかで生きているのか、死んでいるのか知らないミクモという名の女が、その相手なのだろうか。きっと美しい雲と書くに違いない彼女を通して見たトウキョウという借景は、どれほど美しかったのだろう。……知りたいのに、知りたくない。リョウと同じだ。今までミホさんの名前を何度もウェブで検索しようとして、何度も止めた。一度も実行しないことが絆だと信じてしまっている。絆から伸び、僕たちを繋ぐ糸は、長ければ長いほど良いと思い込んでしまっている。きっと僕は、誰にも近付いて欲しくないからこそ誰にも肉薄しないのに、指先ぶんでもいいから繋がっていたいと願っているのだ。愚かで、卑怯で、顔色窺いで、きっと若い。僕が今のミホさんと同じ年齢になった頃、矢張り同じように寂寞の眼差しを得るだろう。このまま上手くいけば、の話ではあるが。
「帰る?」ミホさんに問う。
「ちょっと迷ってる」
「迷うって、なにとなにで」
「帰りたくないよう、って年上が言うのもね」
 どこか幼い表情で笑うミホさんの背後に生えるネオン群。ミホさん越しに見えるのは、どんなトウキョウだろうか。自分がカメラを持ったところを想像して、目蓋を閉じて耳を澄ませる。通り抜ける風の音。遠い月には叢雲。けして派手ではない電飾は、それでもなお色数に富んでいる。その光景は淋しいものだろうか? 広大な砂漠に似て、途方に暮れそうなほどに孤独なのに、確かに色を、他の生命の体温を知っている優しさを感じさせている……気がする。
「帰らないなら、なにするの」空想半ばの頭で、そんなふうに口が動く。
「……散歩、かなあ」
「セックスって、言わないんだね」
「君、そういうの嫌いなんでしょ。なんとなく理解したよ」
 そう言って此方を見る彼女の茶色い睛に、僕の姿が映った気がして、魂でも抜かれそうに思う勘違いから目を逸らす。なにか重大な思い違いをしているような気がして、赤面につられて熱く霜焼けている耳に手を宛てると、ごうごうと風の音が滞留して都会の音を掻き消した。今この瞬間に、寂寞の砂漠にひとりきりになれたら、僕は自分の心の声を聞いてやることが出来るのかも知れない。何かを聞き届け、願いを叶えてやるために歩き出せるのかも知れないが、生憎と今のところ独りぼっちではない。……雑音が多い。
「セックスって、したくない……誰相手でも」
「好きな人相手でも?」
 僕の呟きに機敏に反応して、ミホさんは優しい声を出した。その問いに頷くそばから、色々な罵詈雑言の角を極力削った言葉たちが溢れそうになる。ぐっと堪えて、妙に泣きそうな心地になる。僕はこの恨み辛みを、どこにぶちまけてやれば気が晴れるのだろう。
 いつもいつも、僕は僕のことだけで手一杯だ。
「……セックスするよりも、その人の話を聞きたい。けど、いつだってその心の準備が出来ていない。この瞬間だって、ミホさんに話を聞いて貰う立場だし」
「いい愛情表現だね」
「そして話を聞きたい人たちに限って、話してくれないんだ」
 そのままならなさに喘ぐというのは、渇愛なのかもしれない。愛情を譲歩しているうちに、それを得られないまま大人になってしまった。
『そこまでされて、生きてる意味なくない?』
 学生時代に、同級生が僕についてそう話しているのを耳にしたことがある。話者である彼女とは仲が良くも悪くもなかったように思うが、噂で僕の家庭について耳にして偶々話題にしただけなのだろう。そのときは、そうだよなあ、とひとり首肯した。「わかるよ」と。
 辛い思いをしてまで生きていく価値があるのかといえば、その必要はないと死にそうな誰かを慰めてしまうかもしれない。誰かの希死念慮も逃避行も、僕には否定出来ない。当人は否定を求めているのかも知れないというただの想像は無意味だと身を以て知っている。
 だから、飛び降りたがりの背中を押すためではなく、否定しないためにも僕は誰のことも知りたくなかったのだ。知れば僕の感情が混じってしまって、正常な判断が困難になるだろう。だけれど、否定しないだけでは、話を聞く姿勢でいるだけでは、届かないことがあると悟り始めている。必要なのは相互理解でも、背中合わせに座って語らうことでもなく、相手の皮膚の内に踏み込む勇気だ。きっとそれはセックスに似ている。好きな相手に性交渉の同意を求めるのと同じ熱量で、真摯に求め、受け取ろうとする情動。それを体現しようと蠢かす指の皮膚を剥いでしまいたいと足掻くことは、愛撫であるに違いない。愛したい人の、生きている肉さえあればいいのに皮膚も言葉も邪魔がすぎると眼差しでのみ伝えるような額面通りの優しさを提供することそれ自体はそう難しいことではないはずだ。なのに。内側で内側に触れることには、当たり前に苦痛が伴う。そしてそれは、優しさを謳いながらも慈しみにあふれた行為ではなく、蛮行にひとしい本質を有している。
「皆、対話で傷つくのは怖いんだよねえ。私も怖いよ。傷ついて病気にもなっちゃった訳だし」ミホさんが言う。「それに較べたらただセックスしちゃうことなんて簡単で、楽だよね。肉体への負荷や傷なんて、どうってことない。……シュンちゃんに言うことじゃないのは解ってるけれど」
「……ううん、僕もそう思う。身体の痛みなんて忘れちゃうけど、声で聞いたこととかそのときの感情は、いつまでも残るね」
 快癒することへの恐れは、忘却への危惧なのだろうか。負わなくて良かった傷なんて、消し去ってしまうべきなのに、あの経験も今の自分を形成するものの一部に感じられて、愛おしくなんてないのに情が湧く。
 思考しているだけなのに、びくりと震える四肢に驚く。身体すら持ち上げてしまうほどの力に、傷の深さを知るようで、感慨深くも苦々しい。そんな僕の表情にこの狭っくるしい胸中を汲み取ったのか、ミホさんは「言葉にできて偉いね」と呟いた。
「ミホさんは痛かったこと、言葉にできるの」
 そう訊いてみると、彼女は曖昧に笑うことで回答を受け流したようだった。
 北風に濡れた外気は正しく時間の経過を告げるようで、急に冷え込んできた空気に夜の深まりを感じる。終電は既に無いと思うと、なんだか無性に家に帰りたくなって途方に暮れた。始発までの数時間が酷く長く感じる、という予感。どこかあたたかいところに行きたいという意思を沈黙の中で分かち合うと、僕たちはとぼとぼと夜の街を歩き始めた。

 朝帰りに疲れ切った身体をベッドに沈めると、背中が歓喜しているような感覚から一気に睡魔に襲われた。
 結局朝まで二丁目でだらだら飲み、外が明るくなっていることに気付いた頃には通勤ラッシュの時間帯で、ミホさんと別れ、乗り換えのある駅までを満員電車で移動し、人の少ない下りの急行に乗ると、最寄り駅まで朝日に微睡んだ。アパートまでの道のりをとぼとぼと歩いているうちに寒さにも慣れ、少し汗ばんだ肌にはりつくインナーを掴んで浮かし、通気させる。ひやっと地肌に触れる寒風の、その水気の無さに故郷との違いを見出してすこし淋しくなれば、その真意を探ろうと思考が深いところまで落ちていく。それを引き留めるように鳴るスマホの通知音にポケットを探ると、陽の元で薄暗い液晶にリョウの名前を見出すことができた。見て、認識して、その三文字がリョウと云う音と意味を帯びた途端に、ぱっとかがやくような気持ちになる。画面の明るさを調節しなくても僕の知覚を明確に照射するその名。僕があなたを信仰する。この信心を以てほんものの神になってくれればいいのに。
 祈りの形でスマホを握る。あなたはうつくしい。あなたのうつくしさで、僕の石のような腹腔に花が咲く。
 家に着くと、間もなく報せの通りにリョウがやってきた。手から下げたビニール袋の中身は、見るまでもなくカップアイスだろう。
「まだ冷凍庫の中にいっぱいあるよ」
「じゃあ減らそうな」
 そう言って手持ちのアイスと冷凍庫の中のそれを入れ替えて、リョウは僕の隣へ腰を下ろす。この製品を買うと大抵の店のレジで貰える、ちょっとだけちゃんとしたプラスチックスプーンの包みを歯で破ったリョウは、そのかちこちに冷え固まったアイスの表面にスプーンを突き刺した。簡素な墓標みたいに聳える、白色のそれを指で弾いて振動させ遊ぶ彼女は、気紛れという概念が脱皮した無為な神だ。僕を衝迫することに何の価値も感じていない。そうであって欲しい。僕は欲望を付与して彼女の概念をかたちづくる。
「どうして今買ってきたやつを食べないの」
「かってえアイスが好きなんだよ。口に入れたときに噛んでるぜって感じがして面白い。お前アイスだろ、こんなに硬くて大丈夫かよ、みたいな」
「ダメ出ししながら食べてるんだ」
「逆張りは大事だからな」
 そのスプーンより白い指に力が入り関節が盛り上がるのと、掘削されたアイスが色素の薄い唇に吸い込まれていくのを、横目で交互に眺める。僕もリョウに食べられたいな、と思う。舌の熱で溶かされて、曖昧に噛み締められて喉奥へ流れていきたい。
「最近は撮ったん?」
「写真? 写真なら昨日というか今日撮ってたよ」
「朝帰りか?」朝帰りだろうが気にしたふうでない声だ。しかし僕も気にされたいわけではない。
「うん。だから寝てない」
「ねんねするか?」
「気分じゃない」
「寝るのに気分とかあるん?」
 ないかも、と疲労の滲んだ笑い声が洩れる。その感じは、悪くない。リョウの前では大声で笑ったことなんてないけれど、だからと言って喜怒哀楽が抑圧されている訳ではない。ただ穏やかに密やかに、僕は。ただ。
「僕は……」
「僕は?」
「いや……、うん。ううん」
「なんだよ」はっ、と笑う声が気化して部屋に融ける。
「ねえ、なんでイチゴとバニラなの。アイス。いつも」
 はぐらかす僕の言葉を、リョウは追ってくれる。
「イチゴ飽きたん?」
「いや、いつも同じのだなって」
「何味が好きなん?」
「……リッチミルクってフレーバーあるの知ってる?」
「知らねえ。コンビニにあるか?」
「あ、コンビニで買ってるんだ?」
「そうそう。向こうの角のさ」
「コンビニにもあるんじゃない? 会社にもよると思うけど」
「ほう。じゃあ俺はマカダミアナッツにしよ」
「え、バニラ好きなんじゃないの」
「えー……無感情かもな。他人レベル」
「他人レベルって何」
「そうかー。リッチミルクな。覚えたぞ多分」
「で。だから、なんでイチゴとバニラ?」
「変な味食って、腹壊さないようにと思いまして」
「なにそれ。逆にイチゴとバニラなら安全なの?」
「フツーだから。フツーは、だいたい安全安牌だろ。で、安全なモノをさ、目の前で食ってやれば安心だろ?」
「僕のこと動物かなにかだと思ってるの?」
「未確認生物」
「初耳だよ」
「そりゃな」
 僅かな優しさが大きく感じられて流されそうだ。ほんとうはアパシーに違いないのに、優しさは水みたいにひろがる。水があれば汚れも血もたくらみも流れる。貴方は僕に好意はない。……僕はどうだろう。貴方を愛しているけれど、それはほんとうなのだろうか。真実の愛、なんてものは、実在するのだろうか。
「いてくれて、ありがとう」
 不意に、そんな声が洩れた。喉奥にビー玉は痞えたままでも、言えたことに驚いたような、驚きたいような、そんな気持ちが湧き上がって融ける。この部屋に。こんなに狭いところで、僕はリョウの独存を目視し続けてきた。そして解脱を要求し続けている。……誰に?
「いるだけでいいって、言われてみたい人間ばっかりだよ、世の中」
 そんな真面目なことを言って、リョウは僕の煙草に火を点けた。てっきりくれるものだとばかり思っていたのに、彼女はそれに口をつけると不味そうに噎せて灰皿に押し込んだ。どうやら神は煙草をやらないらしい。
「お前はいつも綺麗な言葉をくれるね」
 彼女のその言葉は祝福みたいに僕の身体の芯に染み入っていった。まるで、僕が貴方の隣にいてもいいみたいだ。湖面に石を投げ入れられて、狼狽えるよりも嬉しいと思えるのはきっと恢復を始めているからだろう。なにか穏やかなものに誘発されて、頬の熱が身体に循環していく。

 薬のお陰か、眩暈は大分取れてきた。クリニックで普段通り薬効の報告をし、雑談兼診察をされていると、ふと先生が「初めてここに来たときよりずっと顔色が良くなっていますよ」と控え目に言ってきた。その謙虚なすがたを見て、何故か吐胸を突かれた心地になって俄かに沈黙してしまう。
「趣味が楽しめるようになったりとか、しましたか」
「趣味……なんだろうな、趣味、わかんないです」
「何か好きなことはありますか? ここ最近でも。前はほら、読書が好きだと言っていたでしょう」
 好きなこと。咄嗟に『寝ること』と答えそうになるが、それはただ楽なことや楽な状態に流れていきたいだけの俗な願望のみを孕んでいる。なにも考えたくないのは人として当然の煩悩だ。では、思考することを放棄しないでいられるような、並大抵では諦められないこととは。
「……好きなひとが、います」
 ささやかな告解のときが訪れた。明確に訪れたと感じたのは身体のあちこちで血行を感じたからだ。先生は優しい眼差しでいる。
「そのひとは、いつもアイスを買って来てくれて……カロリー高いし、ほんとうは食べたくないし、冷蔵庫に入ってるそれを見るたびに、とても怖いんですけど、捨てられないんです。いっつも義務みたいにして食べてるけれど、いつか全部ペロリと平らげてしたり顔を……してやりたい、相手なんです。でも、」
 言葉が詰まると、時が止まったかのような気不味さを感じてしまう。何時もの僕なら会話を放棄したくて適当を並べるだろうけれど、今この場では声を出さなくてはいけない気がした。強迫的な情動ではなく、或る意味では救済を求めて叫ぶような、剝き出しの能動。
「知らないひと、なんです。……広義で。或いは狭義かも。僕はその人のことを何も知らない。そのことが、とても怖い。僕の知らない部分が僕に牙を向ける要素を持ち合わせている気がして、なんにもわからないのに怖がっているんです。だから信仰しているみたいに、近づけない……」
 手が頬に伸び、熱をキャッチする。どきどきが、吐息をふるわせる。きっと他者には理解しがたい言葉の羅列。いや、僕にも理解しがたい。なのに僕は惚気たあとのように胸を高揚させていて、それでいてその胸の奥を悲しみに冷やしている。アンビバレンツな今この感じが、きっと恋だ。愛しているなんて思っておいて、僕はリョウに恋をしている。
 急速に自覚していく。恋は愛よりも低俗だ。そうだ。そうに違いない。そう、思い込みたい。なぜなら信仰とはそういうものだからだ。
「その人は、貴方に優しいひとですか」
 先生が口を開いた。
「他者にどうこうではなく、貴方に優しい人ですか。優しくしてくれますか」
 なによりもそれが肝要だとでも言いたげなその眼差しは、医者としての領分から出ないようにしてくれていながらも、優しい。優しさとは、こういうことだ。
 はい、と返事をする。
「加害するとか、加害されるとかさせるとかではない限り、こちらから言えることは特にないのですが、そういう感情もあっていいんじゃないでしょうか。それに知らないってことも、知っているってことも、ただの思い込みですから」
 先生の握ったスタイラスペンが、手元のタブレットの液晶を滑る。きっと、僕の過去を遡っている。そこに記されている僕の過去。その座標から僕は動くことができただろうか。
 軽快なペン運びで再び上まで戻ったであろうスクロールバー。恐らくそこにある真白い空欄に僕は、寛解の二字を刻むために、これからもっときちんと傷付いていくに違いない。

 はい、これ。と渡されたハガキの、デザイン性の高い表裏を矯めつ眇めつしてやっと内容を認識する。ミホさんの個展のDMだ。目が滑るのが薬の副作用か症状か、判別がつかないが、以前よりは幾分かましになったように感じられる。認識する為に脳内で発声を試みる。ターミナル、と。
「簡易地図が簡易すぎるよね、この手のDMって」
「あはは、わかる」
 僕の指摘に笑うミホさんは、鏡張りの壁に凭れてジントニックを飲んでいる。その隣で同じく壁に凭れながら、僕は煙草に火を点けたライターにそのDMを翳した。薄暗い店内に映える円い火影に照らされて、つるりとした加工の黒い紙面は鏡のようになって僕の指先を映しだす。チケットの行き先は銀座。馴染みのない街だ。
 指先の火を消し、小皿のオリーブを摘まむ。その種を灰皿に吐き出しているとミホさんが言った。
「あ、食べるんだ」
 返事に窮しながら、もやりとした動悸の一拍目を感じる。
「最近ちょっと肉ついた?」
 悪気、を探す。ない。きっとない。吐き気を感じて、息を細く吐く。
「どうだろう、浮腫んだかな……」
 押し出した声は意外過ぎるほどにちいさく、それにつられて心細くなりながらカルアミルクを流し込むと、冷えた胃が幾らか僕を宥めてくれたが、こんどは肺にできた小さな傷がちくちくと痛み始めた。急速に申し訳なさが膨むが、誰に対してそう感じるのかが分からない。
「そのままのシュンちゃんが可愛いよ」
 そのまま、はどこに掛かっているのだろう。ありのままの僕を肯定する言葉なのか、或るいは……。視界の枠線がばちばちとふるえる。そのまま変わらないでいることが有り得ないということを僕は知っている。その場で停滞しているということは、信用に値するのと同義ではない。一片も揺るがないものを信じていたら、人は病んでしまうのだ。
「……ミクモさんってひと、個展に来るの」
 カウンターの心算で、言った。直接的な悪意をぶつけられたわけでもないのに、言ってやらなければ気が済まなかった。ミホさんはゆっくりとした動きで僕を見たと思えば、それに反した素早さで僕から顔を逸らす。束の間の沈黙が紫煙と共に立ち込めて、鏡面の薄氷一枚を曖昧にしていく気がした。
「……どこにいるか知らないの。いきなりいなくなっちゃった」ぼんやりとした声。
 可哀想なことを聴いちゃったな、と思いかけたところで、彼女は続ける。
「撮影の帰りにいなくなっちゃった。銀座だったな。いちばん痩せてて、いちばん綺麗な頃だったよ」
 真っ黒い目をした横顔は、僕と同じだ。病んでいる人間特有の、ガラスみたいなのに光のない睛。ミホさんが僕に求めていたのは、長い黒髪ではなく、単純にいきすぎた痩躯だったのだ。それが解って、幾らかほっとしている自分に気付く。何かから解放されたような、いっそ清々しい心地で彼女にもう一杯勧める。
「奢るよ」僕の金は彼女の金ではあるが、彼女の写真は僕の膚だ。アンパンのヒーローみたいだな、と思って笑う。この狭小循環型社会は、恐らくそのうちに終わりを告げる。
「そう? ありがとう。じゃあ、なんか甘いやつがいいな」
 そう答えた彼女にカルアミルクを買って、乾杯する。僕たちは孤独だ。僅かなところでしか触れ合ってはいないけれど、そういう関係性のほうが人生には多い。そしてそんな目に見えない絆頼りの関わり合いが、なにかを劇的に変えることだってある。
 今日はもう吐かない。そう決めてオリーブを再度口にする。

 ミホさんの個展初日は雨だった。灰色の午後に傘を差し、慣れない銀座へと向かう。貰ったDMにサイン会の時間帯が書かれていたのでそれを避けて行こうと予定したのと同時に、サインを求められるほどの人気を得ている人なのだと知った。コートの前を開けていないと薄ら汗ばむくらいの外気は、間もなく東京に桜を呼び込むだろう。それなのに僕の身体の芯のほうはどこか冷たくて、帰りになにかあたたかいものを買おうと思い立つ。なににしようか。僕は一体、なにを食べたいのだろうか。
 地図アプリを頼りに、駅から少し歩いたところにあるギャラリーに辿り着く。建物の正面はガラス張りで、DMのそれとそのまま同じ、写真のない文字だけのデザインをした垂幕が掛かっていた。『The Terminal』とある。
 入ってすぐの右側は物販スペースになっているらしく、テーブルに平置きにされた幾つかの写真集と、ポストカードが並んでいる。壁には僕が出演した映画が小さなスクリーンに映し出されていた。恐らく、この映像のDVDも売っているのだろう。他のモデルゆかりの販売品なども置いてあるような雰囲気だ。壁に張られた無音のスクリーンの中でチャペは走っていた。どこかふらふらとした挙動だが、彼女はトンネルの中、向こうの光へ消えていく。その瞬間の閃光を感じ取った僕の鼻腔に、薄らと何かが焦げる匂いが掠めた気がした。
 展示ブースに足を踏み入れる。僕の写真だ。他のモデルも、皆異様に痩せている。目には生気が無く、人形のようだ。とんでもない性癖だな、と空笑いか喉を鳴らした。彼女のせいで摂食障害になったり、そこから抜け出せない人もいるのだろうと心の隅で思うが、誰一人として僕は知らないから現実感はない。奥から、ミホさんがファンと話しているであろう声が洩れ聞こえてくる。近寄りたくはないが、展示を観るために進む。大きな写真の前を通ると、そこに写るモデルと僕が同一人物であることに気付いた何人かの視線を感じた。俯く。足元に段差がある。数段のそれが続く先には、聖堂のファサードのような出で立ちの壁面へと続いており、その様はいかにも撮影者にとってのミューズが飾られているのだという風情で。
「……リョウ?」
 壁面の装飾とは打って変わってシンプルな造りの黒い額縁のなかに、貴方はいた。
 ライオン・ニルヴァーナの白い背中。ぼこぼこと浮き出た背骨は項を辿りあの鋭い横顔へと続いて、それはまるで悟りへの道程だ。
 その月照らす砂漠のような静けさを、その一瞬を切り取った人物に対して、巧い、とひとこと賛辞を思う前に、脚から力が抜けへたり込む。それは信仰心からか? いや、怒りだ。絶望だ。おびき出された焦慮だ。「僕の知らないリョウ」を垣間見たことへの。そして「僕の知らないリョウ」は「僕の知っているリョウ」とそのまま一緒だった。あの静けさもあのライオンもあのアパシーな面差しも。ほんとうに、僕だけが知っているリョウなんてどこにもいなかったのだ。僕は誰にとっても何者でもないということの証左に浮かぶ涙を、拳の震えが落としていく。空気の冷たさに、涙があたたかいことを知る。僕を動かしていたのはただの自棄だったのかもしれない。うあ、と喉から声が出る。自分の人生が近い未来に劇的に変わることそれだけを望んで止まないのに、動けないままの生き物がここにいる。
 ぞろぞろと、背後に人が集ってくるのを感じる。端から見た僕は、祭壇画に縋り泣いている狂信者にでも見えているのだろうか。とてつもなく逃げ出したいのに、立ち上がることができないのは、なにから、どうして、逃げたいのかが解らないからだ。たった今死んだな、とどこか冷静に思考するのに付随して、やけにクリアな視線の先にいる貴方は僕を見ない。涅槃の獅子が僕をみている。そこに対話はなく、ただ俗情から脱した墨の黒と膚の白とがある。
「シュン」
 ふと投げ掛けられた僕の名前は、電気のように鳴り響いた。
 顔を上げると、曇天と大風を吸い込んだかのように、髪と衣服の乱れたリョウが立っていた。思わず写真と実体の彼女を見比べ、再び実体へと視線を戻した途端、ひっく、と喉が鳴る。僕の知っているリョウだ。
「帰るぞ」
 初めて聴くその優しい音に、僕の中で敬虔だっただけの信仰がくずれていく。僕は、僕たちには、人間であるという前提条件があったのだ。僕はそれを忘れていた。そして忘れられていた貴方は、どんなに可哀想だっただろう。背後でミホさんの声がしたが、どちらを呼んでいるのかは聞こえなかった。
 顔を上げる。僕には貴方がある。
 だから僕は、最後の啓示を掴もうと手を伸ばす。

 子供のように泣くお前の、洟を啜る音の煩さに思わず笑みがこぼれてしまう。あの栞代わりのチェキの中で、助けを求めるような眼差しでいた痩せた女がひとり、ここに実体を伴って俺と手を繋いでいた。ティッシュを渡してやりたいが、生憎と自分はそんなものを持ち歩くような性分ではない。無論、ハンカチもない。
「もう泣くなって」
 あのギャラリーから飛び出してきて、暫く経った。見知らぬ駅への道順を示す看板が、宵口の青でしっとりと黒い。吐く息は白く、耳がきんと冷たくなっているのを感じる。この調子だと、桜は未だ咲かないだろう。遠くの空で、濃紺に呑まれかけた夕日が僅かに街にオレンジを落としていた。
 漸く泣きやんだのか、背後でポケットティッシュを抜く気配がする。きっとこの子はハンカチも持っているのだろう。ずびび、とあられもない仕上げの音が、バスやトラックの往来にかき消され、後にはふう、と嘆息する声が残った。
 落ち着いたか? と声を掛けると、小さな頭が頷いた。そちらを見ると、吃驚するくらい目許を赤く腫らした殆どすっぴんのシュンがいた。そんなに泣くことないんじゃないかと思ったが、きっと産声みたいなものだから、仕方がない。
「貴方の名前は、」
 ふと、問い掛けられた。俺の名前は、どの名前だろう。本名か。活動名か。それにも色々ある。でもここは正直に。
「リョウだ。雲を凌ぐ、の、リョウだ」
 ぐんぐん歩く。また泣き出す傍らの恋人の目が今度こそ開かなくなるのを恐れて、その手からハンカチを奪って拭いてやる。加減を間違ったのか、ハンカチにはキラキラとしたラメが大量に付着した。
「腹、減ったな。何か食って帰るか」
「アイスはやだ……」ぐずぐずに掠れた声が、咳を伴う。今宵は冷え込みそうだ。
「俺だってやだよ。何が食いたい? 言ってみ」
「……鍋焼きうどん」
 初めて聞いたリクエストに、一瞬声が詰まる。この子はきっとずっと、あたたかいなにかを食べたかったのだろう。それに気付くことができて、よかった。
 一層冷えた大風に、ふたりして身体を縮こまらせる。知らない駅から、メトロに乗る。鍋焼きうどんの店をシュンに検索させながら、その真面目な挙動を眺めていると、涙でつぶれてちっちゃくなった目の感じを、唐突に愛おしく思った。
 だから俺は、自分の人生が今後……いや近い未来に劇的に変わることを確信している。





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