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初めての模擬授業(1)

こんばんは。

今日は生活からネタが出てこなかったので、この夏に集中講義でやった初めての模擬授業について書いてみようと思います。

プロフィールでも書きましたが、私は中高国語科の教員免許取得のために勉強しています。そのため、集中講義で国語科教育法を履修していました。

そこで1人30分の模擬授業をしました。今年は夏の集中講義がすべてオンラインだったので、オンラインでの実施です。
素材文は自由(ただしA4で4枚以内)で事前提出。集中講義期間に自分で考えた学習課題を提示して、それについて他の受講生に考えてもらうものでした。この学習課題が難しくて、

・主題を問わない
・理由を問わない
・心情を問わない

というルールが課せられていました。

私が使ったのは、恩田陸さんの『祝祭と予感』所収の「獅子と芍薬」という作品の一部です。個人的に現在進行形の、ともすると大衆文学として扱われてしまうような作品を扱うことに挑戦してみたかったからです。

この作品は本屋大賞と直木賞のダブル受賞で話題になった『蜜蜂と遠雷』のスピンオフですが、本編の知識がなくても読める部分を抜粋しました。
中盤の、入賞者コンサート前にナイーブになっているナサニエルが三枝子の様子、演奏をきっかけに本来の目的を思い出し、気力を取り戻す場面です。

先にあったように、問題設定のルールは後から知ったので、選んだ当初は二つの思惑がありました。
一つはナサニエルの心情を丁寧に追っていくこと。私の被教育経験からの延長線上にあるものです。
もう一つは、言葉ならざるものを言葉で表現し直すことについて考えること。大学に入ってからテクスト分析をするようになって浮かんできた問題意識です。きっかけは、ある教授がおっしゃっていた

楽譜に不要な音が一つもないように、作品に不要な言葉などない。

という言葉でした。すごく印象的な言葉だったので、大切にしています。音楽も言葉だと言われると反論し難いのですが、情景描写に代表される、ストーリーと直接的には関係していないように見える部分にも意味づけがある、と改めて考えるきっかけになったからです。

結局、授業中にあのルールを知らされたので、後者を考えることにしました。その時に目についたのが

「ナサニエルの前を、鮮やかな風のようなものが通り過ぎてゆき、彼はふと顔をあげた。」(「獅子と芍薬」、p.55、強調は引用者)
「鮮やかな風。」(同書、p.58)

の2箇所でした。実際に本文を読んでもらわないとわからないかもしれませんが、この「鮮やかな風のようなもの」と「鮮やかな風」に違いがあるのかどうか、どこから読むかで解釈が分かれるなと気づいたからです。ナサニエルの心情とも、音楽とも、三枝子とも読めます。そして、それらは皆「言葉ならざるもの」を言葉にしたものとして表れるのだろう、と。

一見ささやかで些細な描写ですが、ここからストーリーとして描かれた出来事を捉え直すことができるのではないか、という疑問が出てきました。これを課題にしようと決めました。

ちなみにもう一つ、ここで決めたこととして、素材文から他の作品や現在の状況などに広げず、閉じたテキストを切り口を変えて深めることがあります。
私の関心は比較文学のフィールドに近いので、他の作品との関係や読者の置かれた立ち位置からのアプローチも非常に魅力的でした。ですが、今回それをやると内容が浅くなりそうだと感じたので、一度とことん単一テクストに向き合ってみようと決意しました。

長くなったので、今日はこの辺で。明日続きを書くことにします。

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