渦巻くわだかまりと対峙
11,525日目
私の中に消化しきれていない感情がある。
物理的に遠くヨーロッパに来ても消えることはなく、どこかで言葉にしておきたいことだと思ってこうして書いている。
私は、明るくポジティブな印象を持たれることは多い。でも、noteは私の内面を映す場所。私の隠れ家のような。少しの知り合いがいることへのこっぱずかしさを今日は特に脇に置いておく。どこかにカタチにしておかないと、自分の頭の中ではすぐに整理することを諦めてしまうから、ここに。現に書き始めてから数日、未だまとまっていない。
前置きが長くなった。
先月、祖父が亡くなった。
覚悟はしていた。昨年から日本に帰国するたびに祖父母の家で、家事と介護のサポート、食事と団らんで日々の様子を近くで見ていたから。去年の秋から一つ屋根の下で1か月以上時間を共にした。
介護認定のレベルも順調に上がっていき、今年の2月からは病院生活になった。
私は帰国し、病院を訪れた。
孫の立場だから、見えていないことも多いと思う。でも一人の大人として、祖父の衰えていく姿と共にいた。
私が共にいられないもの、無力感。いつかのnoteにもそう書いている。
人が歳を重ねること、体力的に衰えていくこと、そんな自然の摂理には抗えない力がある。いつも無力感がある。
これでよかったのかな、ちゃんとその時に向き合えたのかなって今でも思ってしまう。そして、涙があふれる。
一緒に介護をしていた母と話していたことがある。
おじいちゃんは私たちに何を教えてくれているのだろうか
食事以外の時間はほとんど寝たきりなり、運動能力も車いすの乗り降りを補助ありでどうにかできる程度に下がってきたときだった。
車いすからベッドの移動に失敗したとき、力ずくで母と祖父を抱えあげたこともあった。
地域では一目置かれるような存在だったおじいちゃん。生活の基本が自分の力でできなくなっていく事実をどう感じていたんだろうって。
寡黙な人で、しんどいとか痛いとかほとんど聞いたことがない。孫だからという訳ではなく、聞く限り他の誰にも。ほんの少し祖母には甘えていたかな。
言葉や行動よりも、生きた姿勢、生き様。祖父が教えてくれたこと。
抗えない衰えと共に受け止めていた、その器。
頭は最後までとてもはっきりしていたので、きっと幾度となく考えたのだろう。どう生き、どう死んでいくかを。
関連して思い出す。家は浄土真宗で、毎年夏休みには親戚が集まり、お盆の夜はお経を読む習慣がある。私が幼いとき、元気な祖父がお経を唱え、終わった後に仏壇の方からくるっと私たち(孫たち)の方を向いて講話を聞かせてくれた。
お経を唱える背中、声の響き、講話の時の眼差し…印象は変わっていない。
身体的に弱っていく中でも、その生き様は最期まで強く太かった。
一つ、鮮明に思い出す会話がある。去年の11月ごろ、食事の後体調がよかった祖父は私と雑談をした。
私がヨーロッパに住んでいることから、祖父の旅行とその思い出を聞いた。
ふと私が投げかけた質問。「住んでみるならどこがいい?」
「スイスは自然と街がきれいだったな」とおじいちゃん。
そして、小さくつぶやいた。「もう行けないからちょっとさびしいな」と。
その時、私は小さなつぶやきに反応できず、スイスという答えについてさらに質問を重ねることしかできなかった。そのさみしい空気をどこかに置いてけぼりにしてしまった。
垣間見えた祖父の違う一面。
今となっては推測でしかないけれど、祖父の生き様はきっと一貫して意図されたものだったのだ、この時ぽろりと違う面が出てしまったのだと捉えている。
通夜・お葬式の際のお寺の住職さんから見た祖父も、喪主である父から見た祖父も、生き様は一貫していた。
家を守るべき、家族はこうであるべきが強くある人でもあり、時代に合っていないよって思ってしまうところも正直あった。
それでも、祖父は在り方、生き様を選択していたことを改めて感じ、尊敬の念が湧き溢れる。
Viktor Emil Franklの提唱する生きる意味となる3つの価値の内、自身のとる態度によって満たされる価値「態度価値」を示してもらった。
直面していいる現実にどんな態度で向き合うかによって価値は生まれもし消えもします。~中略~ 必死に生きようとしているならば、「その姿」「その態度」は、それを見た人々に「生きる勇気」や「人生の意味を考える機会」を与えるでしょう。
だから、こうして私は書くことに繋がっている。
私はどう生きて死ぬか…すぐには答えが出ない問い。ただ、祖父の背中を忘れずに。
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