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「妹のことを話してみたい」(その11)~ 居酒屋『戦国』

 是非会ってほしい人がいる。妹からそう言われ、会ってみることにした。
 その人に私の制作したCDを渡したところ、大層感激してくれて、会いたがっているという。居酒屋のマスターで「とても良い人だ」。妹はその部分を強調した。

 その当時の私は、ピアノ指導と音楽制作に携わり、音楽中心の生活をしており、人付き合いは、ほとんどピアノの先生か楽器屋の店員に限られていた。
 世間一般から見ると、極めてストイックというかオタッキーというか、ほとんど仕事だけを見据えた、孤独かつ閉鎖的な生活をしていた・・・、ということになる。
 ピアノを弾き、音楽を聴き、音楽書を読み、趣味で文章を書く・・・、そう言えば、文芸同人に加入していた時期もあった。そういう生活を楽しんでいたし、特に何の不足も感じていなかった。

 友だち付き合いのあった同性のピアノ教師も2人ほどいるにはいた。年齢は少し下だったが、かけ離れているというほどでもなく、自宅に招かれて訪ねたこともあったが、音楽的なバックグラウンドに違いがあり、心から打ち解けるというほどの親近感は抱いていなかった。
 世間一般の同年代の人たちはどのような生活をしているのか・・・、たまに、何となくそんなことを想像してみることもあった。

 この頃の私は、世間話が苦手で、特に初対面の相手とは何を話してよいかわからず困るという、対人恐怖症気味のところがあった。現在そのことを人に話すと、一様に「考えられない」という言葉が返ってくる。
 そんな自分にとって、居酒屋という空間は、全くの未体験ゾーン。視界にすら入っていなかった。
 会ってほしいと言われても、心はほとんど無反応。「そんなに言うのなら会っても良いか」程度のドライな気持ちだった。

 居酒屋『戦国』。

 初回訪問時、どのようにしてそこに行ったのか思い出せない。酒を飲む店なので、妹の運転で案内された可能性が高いが、そう思って思いを巡らせても全く記憶が蘇ってこない。

 ― 居酒屋のマスター ―

 なんとなく、こんな姿の人物を想像したことだけは、覚えている。
 

 ところが、厨房から出てきた人物は、想像とは全く違っていた。長髪を束ねた、ジーンズの似合う細身の体型、居酒屋のオヤジというよりミュージシャン。はっきりとした目鼻立ちとまっすぐな眼差しが素朴な人柄を感じさせた。
 私のテーブルに近づいてきた彼は、緊張の面持ちで挨拶をした後、CDを聴いた感想を熱っぽく語り始めた。

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 営業終了後、遅くまで話し込んだ。若い頃、バンドでドラムを叩いていたということで、音楽に対する思い入れも並々ならぬものがあり、10代の頃熱中したロックの話が通じるのが嬉しかった。

 昼間の自分は、本当の自分を出せないままに行動していた。教室を経営している会社の専務から、
 「先生の先生なのだから、常にその立場を考えて振舞うように」
 と言われ、実際の自分とは乖離した「大先生」を無理して演じようとしている息苦しさを感じていた。そして、その演技は全くヘタクソなものでしかなかった。
 そんな不自然さから抜け出せる心地良い解放感。予想もしていた幸福な時の到来だった。

 名は「秋夫」。私より3歳上。「あきちゃん」と呼んでほしいと言われたが、さすがにそれはちょっとためらわれ、「あきおさん」と呼び続けた。

 私のCDを店に常備し、各方面にも紹介して回ってくれ、誰よりも多くのCDを売りさばいてくれた。
 コンピューターを用いてのシンセサイザーでのステージ演奏を依頼されると、機材運びを手伝ってくれた。ここまで協力を惜しまなかった人は、彼を置いて他にいない。自主コンサートを提案してくれたのも彼だったし、その会場として店を無償で2度に渡って提供してくれた。

 妹が言っていたように、本当に「良い人」だった。

 音楽好きな店の常連客とも顔見知りになり、青春期以来の楽しい時間が戻って来た。振り返ってみると、居酒屋『戦国』に出入りしていた頃は、自分が自分らしさを取り戻すための貴重な転換期だった。
 今では、人前に立ってトークするのが大好きなマジシャンになっているが、この頃の私は、すでに述べたとおり、やや対人恐怖的なところがあり、スピーチやステージトークにも苦手意識を持っていた。
 それまでの音楽との関わり方は、自宅で五線紙とコンピューターに向かうという個的作業を通じて音楽を作り上げ、録音されたものを依頼者に届けるというものだったが、多くの人と知り合い、人前に立つことが増えて行ったこの頃の体験が、今の自分に結び付いている。

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 居酒屋『戦国』という場は、職種の異なる妹との共有空間としても特別な位置を占めることになった。

 保険の外交さんという職業柄、妹にとって人脈作りは、大切な仕事の一部。そうなってくると、妹貴美子の生来の社交性がモノを言った。
 皆から「貴美ちゃん」と呼ばれ、慕われていたし、頭の回転の早さが一目置かれてもいた。以後、常連客となった私と「仲の良い兄妹」と言われ、社交辞令的要素も混ざっていたとは思うが「個性的ですごい兄妹」という声もたびたび耳にした。周囲のそんな評価にくすぐったい思いもあったが、悪い気はしなかった。

 いつだったか、妹を含めた常連客たちとカラオケに繰り出したときの一場面が忘れられない。

 声量があるというのが若き日の妹の自慢だったが、マイクを腰のあたりに持って歌う姿に、皆驚いていた。兄の私も、そんな姿を初めて目にして度肝を抜かれた。

 学生時代の話は、直接見聞したものではなかったが、同じ空間に身を置き、実際に皆から愛されている姿を、自分の目で直接見るのは、幼少期以来だった。
 小学生だった私のクラスメイト達から可愛がられ、アイドル的存在になっていた3歳の頃の姿が思い出された。

 ― 目の前にいる人気者は、確かにそのままの妹貴美子だ ―

 鈴鹿での、あの人格否定され虐げられていた結婚生活から解放されて、妹は本来の自分らしさを取り戻していた。そして、その存在そのものが、私の人生を良い方向に導き動かすだけの影響力を持つようになっていた。
 妹貴美子とテリトリーの一部を共有していたこの時期は、無条件に楽しい思い出として心に残っている。

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 時は流れ、私が47歳になった年の秋、故郷の両親の高齢化を受けてUターンを決意する。
 その際の、妹の末娘、私から見ると姪っ子との忘れがたい一夜。妹から受け継いだと思われるすさまじいほどの霊感を目の当たりにし、それまでの自分が霊的な力に支えられていたことを知ることになる。
 そのことは、以下の作品で詳細に書いた。

 その他、文章化はしていないが、学生時代に大阪で会った時に、自らの霊的な体験を妹の口から聞いた。その時は、半信半疑といった状態から抜け出せていなかったが、姪っ子との体験を通じて、妹が体験してきた諸々の超常現象が、現実としての重みを持つものとして感じられるようになった。
 できれば、もう一度聞いてみたい気もするが、すでにこの世にいない。

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 妹との最後の思い出はこちら、

 

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