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終焉

 会社から帰る電車は春の陽気が車内にも充満しているようで、少し暑かった。お気に入りのお笑い芸人がアイスの食べ比べをする動画を見ていたら、余計に暑く感じてくる。
 スマホの画面を見続けているのに疲れを感じて顔を上げると、博物館の企画展を知らせる中吊り広告が目に入った。
 それは昭和の暮らしや文化を伝える企画展で、戦前から戦後のイケイケ期まで(本当にこう書いてある)の流行や使われていた道具などを紹介していて、六十余年の昭和の生活を感じられるものらしい。
 平成生まれの私にとって、実家で使っている丸いちゃぶ台くらいしか、昭和を感じるものが身の回りにない。ずっとテーブルとイスを使う生活に憧れていたが、東京で一人暮らししているアパートでも、結局丸いローテーブルを使っている。
 ギリギリ昭和生まれの彼を誘ってみようか。最近彼の仕事が忙しくて会えていない。SNSで誰かの投稿にリアクションしているのを見て、彼の生存確認をしている。付き合って3年も経つとそんなものなんだろうか。
 少し汗ばんだ手に握ったままのスマホに視線を戻して、緑と白のアイコンのメッセージアプリをタップする。クーポンがもらえるからと、なんとなく登録している企業のアカウントが並んでいる。スクロールしないと彼の名前が出てこない。
 資本主義に私たちの恋が埋もれている。掘り出した彼の名前をタップする。
【久しぶり】
【今度の週末、会えないかな?】
【一緒に行ってみたいとこがあるんだけど】
 彼女から彼氏に送るメッセージってこんなテンションだったかな。
 すぐに返事はこないだろう。私はメッセージアプリを閉じて、企画展の公式ホームページを検索する。
 展示内容を紹介するページにあった、和服を着て文机に向かって何かを書いている男性の画像を見ていたら、彼からメッセージが届いた。思ったより返事が早かった。
【元気だった?】
【最近忙しくて連絡できなくてごめん】
【やっと今日大きな仕事が一段落した】
【おれも会いたい】
【どこ行くの?】
 立て続けにメッセージが届く。私だけに向けられた【会いたい】の四文字に、心臓がトクンと鳴る。
 私はさっき見ていたホームページのURLをコピーして送った。
【こういうのに興味があるのってなんか意外】
【おれも一応昭和の人だし行ってみよっか】
【会えるの楽しみ】
 3年経っても、どこに行くかより、私と会うことを楽しみと言ってくれる彼で良かった。また心臓がトクンと鳴る。私はカバがハートマークを持っているスタンプを送って、返事の代わりにした。

 土曜日の夕方に彼から、今夜は彼の家に泊まって、そのまま明日博物館に行かないか、と誘われた。ちょうどクリーニングに出していた冬物のコートを取りに行った帰りだったので、最低限のメイクもしている。私は、夕飯の食材買ってから行くと伝えて、急いで家に帰った。
 着ていたパーカーとジーンズを脱いで、ワンピースに着替える。少し迷ったけど、下着もちょっと可愛いものに替える。スマホにメッセージが届く。
【夕飯は作ってあるから大丈夫だよ】
やるじゃん。でも、たぶんカレーだな。視界の端でワンピースの裾が揺れる。
【ありがとう】
【今から家を出るね】
 彼に返事をしてから、着ていた白いワンピースを脱いで、カバンに入れていたスカートとカットソーと入れ替える。ワンピースは明日にしよう。
 地下鉄と私鉄を乗り継いで彼の待つアパートに着いた頃には、20時前になっていた。玄関の扉を開けると、案の定カレーの匂いが顔を撫でてくる。同時に、彼の肉厚の手が頭を撫でる。
「久しぶり。あー、会いたかったー。なんか明日が待てなくてさ。呼んじゃった」
 そう言うと、ドッヂボールのボールをキャッチするような勢いで私を抱き寄せた。彼のパーカーからカレーと洗剤の匂いが混じった匂いがする。ふっと私を抱きしめている力が弱まったかと思ったら、おでこのあたりに柔らかい感触を感じて、チュッと音がした。
「私も会いたかったよ。あー、顔見たらお腹すいちゃった」
 久しぶり会っていきなり目の前10センチ先に彼の唇がある。迫ってきそうな彼の唇をなるべく自然に見えるように避ける。
「まず荷物置かせて。ちょっと重くなってきた」
 メイク道具とドライヤーが詰まったカバンは、じりじりと私の腕に乳酸を溜めていく。早く荷物を下ろしたい。
「ああ、そうだね。じゃあ、食べる準備するからとりあえず座ってゆっくりしてて」
「ありがとう。手伝わなくていいの?」
「大丈夫。あとは盛り付けるだけだから、俺がやっちゃうわ」
「うん、お願いします。あ、お手洗い借りるね」
「どうぞー」
 彼も私もお酒が弱い。だから、一緒に飲みに行くより家でご飯を作ったり食べたりするほうが楽しめる。

 カレーを食べたあと、順番にシャワーを浴びた。ここに来る前に替えた下着を、今も着けている。
 ブラジャーの左右のカップの間にあるレースのリボンは、私に勇気をくれる魔法のリボン。恋人同士の大人の男女が同じ部屋で一夜を過ごすんだから、きっと今夜私は、セックスをする。しばらく会ってなかったから、彼は、きっと私を求めてくる。私という存在そのものを求められる安心感と喜びを想像して、また、心臓がトクンと鳴った。
 私が髪の毛を乾かしてリビングに戻ると、彼がコーラとポップコーンを用意していた。
「去年さ、俺が急に体調悪くなって観に行けなかった映画、覚えてる?」
「あー、なんだっけ。新海誠でしょ?あのー、すずめ?カラス?なんだっけ」
「はは、それ。一緒に観ようよ」
 ソファーに二人で座って、コーラを飲みながら映画を観る。私の右手に彼の左手の指が絡まっている。
 エンドロールが終わると、彼の左手は私の右手を離れて太腿に着地した。彼の方に顔を向けると、少し乱暴に唇をふさがれた。彼の舌が唇を割って、私の舌と絡まる。彼の手は内腿を滑るように脚の付け根までゆっくりと撫で上げて、そのままパジャマ代わりのスウェットの中に潜り込む。
 私は唇を離して彼を見つめる。
「ちょっと待って、お布団いこ」
 彼は無言で頷いて先に立った。膨らんだ彼の股間が目に入る。
 寝室に入ると、彼が私の服を脱がしてきた。カップの間のリボンに軽く触れてから、私は自らブラジャーを外す。彼がショーツを脱がすのに合わせて、足を抜く。
 一糸まとわぬ姿になって先に布団にもぐると、すぐに彼も全裸になって布団に入ってきて包むように私を抱きしめる。お腹の辺りに彼のペニスが当たっている。彼の手が優しく私のお尻を撫でたときに思わず、ピクンと体がはねて、とろけた。
 彼のペニスを私の股にある小さな口がくわえ込む。そんな私の体を包むように抱きしめながら腰を振っていた彼が果てると、私は体液と一緒に溶けた。そのまま彼に申し訳なさを感じながら、髪を撫でる彼の手に押されてストンと眠りの穴に落ちていった。

 目が覚めた時の布団の匂いで、目を開けるより早く家かそうでないか分かる。ゆっくり目を開けるとポカンと口を開けたまま寝ている彼がいた。布団の中を覗くと、暗がりの中に裸の男女が見える。私は彼を起こさないようにそっと、でも急いで布団から出て服を着てトイレに入った。
 トイレから出ると、流す音で起きたのか、いつもより低い彼の声が聞こえてきた。
「おはよう。いま何時?」
「おはよう。えーっと」
 壁の時計を見ると、10時を過ぎていた。カーテンのドレープから漏れる光が、部屋全体を暖めているようだ。
 彼に時刻を伝えて、リビングのカーテンを開ける。春の陽の柔らかさと初夏の匂いが同居した光が目に刺さる。
「デート日和じゃん。ナイス、お天道様」
 いつの間にか服を着た彼が、後ろから抱き着きながら言ってきた。
「ね、いいお天気で良かったね。前に可愛いって言ってくれたワンピース着るからお楽しみに」
「やった!俺もひげ剃って、カッコよくなってくるわ」
「キスするときにチクチクするから、ぜひお願い」
 振り向いて彼の頬に唇を寄せる。会社にいるときの私と、起き抜けの彼の頬にキスする私はどっちも私なのに、まるで正反対で笑えてくる。
 博物館に着いたのは、14時過ぎだった。
 途中のコンビニで買った企画展のチケットをスタッフに渡す。
 入り口を入ると、最初の展示室には10人くらい人がゆっくり歩いているのが見える。「順路」と書かれた表示の隣に昭和初期の白黒写真が並ぶ。「モボ」とか「モガ」と呼ばれた若者たちが楽しそうに笑っている。
「すごい。思ったよりおしゃれでかっこいい!私、ちょっと勘違いしてたかも。みんな和服だと思ってた」
「俺も。意外といろんな恰好してるんだな」
 順路に沿って歩いていくと、実際に使われていた道具を展示して当時の生活の様子が分かるようにしてあった。
「俺さ、博物館に展示されるっていうのは、物にとっての終焉だと思ってるんだよ」
 戦前と戦中をつなぐエリアで、彼が唐突に言い出した。
「もちろん、展示されることでたくさんの人の目に触れて、何かを伝えるという新しい役割はあるかもしれないよ。でもさ、博物館に展示されたら基本的に本来の役割はなくなるでしょ。俺はそれって、その物が終焉を迎えたってことだと思うんだよね」
 彼は日中戦争の解説パネルを眺めている。日本から遠く離れた中国大陸で終焉を迎えたかもしれない兵隊たちの写真に、彼は何を見ているのだろう。
「人間はやり直せるけど、物はやり直しができないんじゃないかな」
 彼の中に何が湧き上がっているんだろう。私は彼が遠くの地で使い慣れない武器を持って、敵軍に突撃する様子を思い浮かべた。
「そうかもしれないね」
 いろいろ言おうとしたけど、私の口から出たのはその一言だけだった。
 気まずくなったわけじゃないけど、なんとなく楽しくおしゃべりする雰囲気でもなく、昭和天皇崩御まで、私たちはほとんど何も話さずに順路を辿った。
 私の手を握る彼の手が、いつもより少しだけ冷たかった気がした。

 それからまた一ヶ月、私たちは会わずに過ごした。今度は私の仕事がさらに忙しくなり、週末も仕事を持ち帰ることが多くなった。
他愛のないメッセージのやり取りはあったけど、それも少しずつ減っていて、ここ数日はSNSでも彼の存在が感じられない。
 会社帰りの電車の中は、午後から降り出した雨のせいでかなり蒸し暑かった。金曜の夜ということもあってか、車内は酒臭くてどこか陽気な空気が漂っている。
 イヤホンから流れる音楽を遮って、メッセージアプリの通知音が鳴る。抱えたカバンからスマホを取り出し、少し汗ばんだ手でメッセージを表示させる。
 彼からだった。
【元気?】
【実は伝えたいことがあって】
【最近忙しそうだからメッセージにするね】
【前のデートで博物館に行ったでしょ】
【そのときに、俺たちの終焉って何かなって考えちゃったんだ】
【それで、上手く言えないけど、未完のままで終わらせたいって思っちゃったんだ】
【ワガママや詭弁だって分かっているけど】
【二人の関係をそのまま剥製にして思い出の中に展示しておきたいって】
【このまま続けていこうとは、どうしても思えなくなった】
【ごめん】
【だから、別れよう】
【理不尽なのは自覚してる】
【ごめん】
 意味が抜け落ちたように、ただの文字の羅列が並んでいる。
 私は一言だけ【さよなら】とだけ送り返した。既読になったけど、それ以上のやりとりはなかった。
 昭和の終わりと同じように、私たちも突然終わった。昭和の男は私から去って行った。
 なんとなく予感のようなものはあったから、驚きはしなかったけど、それを受け止められたかというと、そうでもない。
 最寄り駅に電車が滑り込む。向かいの窓を横に流れていた水滴が、下に流れ落ちるようになって、電車は止まった。
 彼との3年と数か月を思い出しながら、家への道を一人で歩いていく。一週間分の疲れと彼との思い出を抱えて雨の中を歩くには、徒歩10分の距離はちょっと遠い。
 家の扉を開けて、リビングまでなんとかたどり着くと、彼からもらった大きなビーズクッションに後ろから倒れこむ。体を動かすと、沈み込んだ頭の周りで波のような音が聞こえる。ビーズの波音を聴きながら、ローテーブルの上にあるリモコンに手を伸ばし、実家から持ってきた小さなテレビをつける。
 1カ月前に彼と一緒に観た新海誠のアニメ映画が地上波放送されている。
 私は鍵をかけてなかったことを思い出して、玄関までいく。小さな四角いレバーに手をかけて、誰に言うでもなく「謹んでお返し申す」とつぶやいて鍵をかけた。
 リビングに戻り、私は海に飛び込むようにまたビーズクッションに倒れこむ。呼吸がしやすいように寝返りを打つと、テレビの音を聴きながら私はゆっくり瞼を閉じた。



七緒よう

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