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村上春樹って何が良いの?

村上春樹は知っているけれど

まあ、めちゃくちゃ有名だし、『ノルウェイの森』くらいは読んだことがある。
だけど、『ノルウェイの森』だけじゃ、彼の小説の良さはわからなかった。

村上春樹の海外人気

さて、現在私は海外で暮らしているが、海外にいると、日本人というだけで村上春樹の話題をふられることがある。
確かに本屋に行くと必ず目立つところにHARUKI MURAKAMIの本が置いてあるし、外国人の知人にも熱烈なハルキストがいる。
ファンレターの翻訳も手伝ったことがある。

「異国の地でもこんなに人気なのに、私は日本人のくせしてまだ村上春樹のことを何も知らない。」

と、ようやくここで彼の小説への興味が湧き、とりあえず数冊買って読んでみることにした。

読んだのは、
・『中国行きのスロウ・ボート』
・『アフターダーク』
・『羊をめぐる冒険』

読んだ感想

「え、めちゃくちゃ好き」

チョロいので秒でにわかハルキストになった。
どれもメルカリに還元されることなく無事に我が家の本棚に収まることとなったよ。
なかでも『アフターダーク』がすごく良くてお気に入りだ。

村上春樹の何が良いの?

私が上述の数少ない村上春樹小説を読んで感じた魅力は以下である。

・記憶の断片のような比喩表現

比喩表現の自由さとランダムさがとても良い。
例えば、

「どう、どんな気分?」
「井戸の底に落ちた西瓜みたいな気分だよ」

「貧乏な叔母さんの話」『中国行きのスロウ・ボート』

テーブルには空になった五枚の皿が並んでいた。五枚の皿は滅亡した惑星群みたいに見えた。

『羊をめぐる冒険』

井戸と西瓜。皿と惑星群。
まるで結びつかないそれぞれ断片でしかなかったものが、比喩によって不思議な繋がりを持つ。
「詩」というのは、この世界のあらゆる断片を言葉で繋げ、形を持って浮かび上がらせる力がある。
村上の文体は詩的なのだ。
もちろん詩的な作家は他にも山ほどいるだろう。
しかし村上の場合は、ひとつの断片から何か近しいものを連想するというよりも、たまたま落ちてた何の類似性もない断片同士をひょいっと繋げてしまったような、不思議な魅力がある。
村上にとっては、世界、あるいは記憶の断片の全てが詩の欠片なのだろう。

・詩は絵のごとく

上記の比喩表現にも関連するが、村上の小説を読んでいると、頭の中に素敵なイメージが浮かんでくる。

記憶というのは小説に似ている、あるいは小説というのは記憶に似ている。(中略) どれだけきちんとした形に整えようと努力してみても、文脈はあっちに行ったりこっちに行ったりして、最後には文脈ですらなくなってしまう。なんだかまるでぐったりした子猫を何匹か積み重ねたみたいだ。生あたたかくて、しかも不安定だ。

「貧乏な叔母さんの話」『中国行きのスロウ・ボート』

ぐったりと積み重なったたれパンダみたいな猫ちゃん達の絵が思い浮かんだだろうか。
文脈となりえなかった言葉の数々が、猫という表象になって浮かび上がる。

これからどこに行けばいいのか僕にはわからない。砂漠のまんなかに立った一本の意味のない標識のように僕はひとりぼっちだった。

「貧乏な叔母さんの話」『中国行きのスロウ・ボート』

ぽつんと砂漠に佇む僕と標識の絵が思い浮かんだだろうか。
なんだか絵になるイメージだと思わない?

・夢の中のように抽象的

こうした詩的な表現にあふれた村上の小説を読んでいると、夢の中を浮遊しているような気分になる。
夢は記憶の整理である。
断片的な記憶をランダムに繋ぎ合わせて、抽象的なストーリーを作りながら記憶を整理する。
そうして紡ぎ出された夢の中のストーリーは、混沌も抽象も何でもアリな魔術的な魅力を持っている。
村上の小説は夢に似ている、あるいは村上の小説は記憶の断片に似ている。



そんなわけでにわかハルキストになった私はまだまだたくさん未読の村上春樹がある。次はどの村上を読もう。
読書が楽しみだ。

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