手芸メディテーション

縫い物にしろ、編み物にしろ、瞑想と同じなのです。

禅宗の修行には、袈裟を縫う時間があります。
お袈裟は、キャクシ(漢字忘れた笑)といって、斜め半返し縫いで縫います。
全部です全部。
これは、アナン様だったかね、イケメン僧侶が女性に糸を抜かれて全裸にされた事があるから返し縫いになったらしい。
凄い話ですな笑 

お香を焚いて、お経をあげて、黙って縫います。
まあ、私が黙ってたかというとそうでもないですけど笑

縫い物は縫わないと終わりません。
編み物も編まないと終わりません。

けど、一針、一針と、繰り返せば必ず形が見えてきます。
他の何にも使えない様な布を繋ぎ合わせれば、一枚の大きな布になります。
そうやって言うと織物も組物もそうです。
なんだってそう。
歩くのだって、足を前に進めて居ればいつか何処にでも辿り着く。

間違えて解く事もありるかもね。

その一つ一つ、苛だつ必要は無い。
解けばいいだけ。
ただ、解く時に出会っただけ。

坐禅は今唯坐るだけ。
縫い物も、今唯縫うだけ。
そりゃ、掃除だって仕事だって、何だって同じ事なんですよね。
今を唯繰り返して人生がある。

縫い物をしながら、昔は家族の為に縫ってただろうと思う。
敬虔な信者さんは僧侶に袈裟を縫って布施する事がある。
誰かの為に願う一歩一歩の趣きがある。

けど、私は兄の袈裟を縫うのに飽き、夫のハンカチ縫いながらも飽きてしまった笑
自分の物じゃないと飽きてしまう。
そんな自分に気付く。
結局私は私の為にしか一歩を進めない。
その自覚を強く持っている。

上手くやらなきゃ、綺麗きやらなきゃ、相手を想わなきゃ、、、
出来栄えで自分の愛情がジャッジされる。
そういうの、私は向いてないです。
ただの苦しみだから、逃げちゃう。

ただ、自分の為に作った割と手の込んだ髪飾りを、もっと似合いそうな友達にあげたとき、とってもすっきりした。

私は私の為に人生を一歩一歩と進むけど、それをあっさり手放す事は何ということも無い。
だから、いつだって自分の為だけに手を動かす。

そんな気持ちになる。

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