器の大きさが見える時

メンタリストDaiGo、ゆたぼんを批判する人に「素直に賞賛する余裕もない大人は残念なヒト」
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=8&from=diary&id=7169234

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どちらかの意見の「内容」に肩入れするというのではなくて、表現に対して思うところ。

「意見が異なる相手」に対して
相手の人格攻撃や誹謗中傷を行い、罵詈雑言を浴びせる人物は著名人とか炎上系YOUTUBERとか政治界隈も含めてかなり多い。

意見が異なる相手に対して、
その内心でどう思うのかはまず完全に彼らの領域にある(=自由)だ。
それをどのような形で表明するのかも彼らの領域にある(=自由)だ。
ただ、表明した時点で私を含め第三者の印象がどうなるのか?
それもまた、第三者それぞれの領域にある(=自由)ことを失念してるように見える。
将棋で言えば「3手の読みレベル」のことだが、彼らは己の鬱屈した感情を晴らすという
「1手の読み」しか出来てないように思われる。
その証拠に(?)彼らは反論を受けると狼狽えたり、気色ばんで反論することが多い。・・・まあ、その反論も感情的に行われることが多く、その場合は建設的な議論は
はるか彼方へと飛び去ってしまうものだ。

私は議論は「たとえ1対1でも第三者の目線を意識すべきフィギュアスケート」としてとらえている。「路上の喧嘩」ではなく「第三者評価の大切なフィギュアスケート」だ。代表事例は「裁判」だろうか。

利害の当事者以外がその裁定を下すことがより権威のあることとされているのだから、相手への誹謗中傷や罵詈雑言の比率が高い方々は「相手としてはチョロい」と言える。

「自分が絶対に正しい」「だから相手の言い分は聞く必要がない」と決めつけている相手とは文字通り「お話にならない」。そう言ってる時点で彼らは自分が間違ってた場合に「謝罪して修正する」という論理的態度という退却路を自ら封鎖している。「あれだけ過激に言ってるから今更謝れないよ・・・」ということだ。彼らに論理的態度を期待するのはかなり望み薄と言えよう。

「誹謗中傷罵詈雑言を好む彼ら」に対して必要なのは「初期は説得を試みたという第三者へのポーズ」であり、その手順を踏んだ上で「以降は言葉の通じない動物に対する調教(失礼)」となる。

「言葉の通じない相手」にいくら「論理的で説得力の高い言葉」を重ねたとて、無駄なことだ。別に相手をバカにしているのではない。むしろ「理解できない相手に理解しろと迫るのはかわいそうなこと」だし、「論理を理解する能力がない相手に、論理的説得を続けるという無駄な努力を続けるのではこちらも同レベルに落ちる」と言えよう。

論理というのは存外脆弱なもので「両者に一定の論理性がなければ通用しない」のだ。

相手の言葉をちゃんと聞いている、少なくとも聞く努力をしていると明確に示すには、特にネット上の議論に置いては「相手の言い分をコピペして論証すること」だ。議論ができない人はしばしば「自分に都合よく相手の言葉を言い換える」ものだ。私の場合、言い換えられた言葉に反論する必要すらないので「私はそんなこと言ってないんですけど」と返答して終わってしまう事が多い。「同じことを言ってる」というなら「じゃあ言い換える必要ないですよね?」という寸法だ。

逆に私が相手の言い分に言及する場合はコピペは必須である。いわゆる意味をゆがめた「キリトリ」にならぬよう注意は払わねばならないが、素材に相手の言葉を用いる時点で、少なくとも「相手の意見をそのまま聞こうとしている=尊重している」という姿勢を示すことができる…第三者に(笑)。
むろん相手が「ちゃんと議論できる人」であればそれにこしたことはないのだが。

なので、私は私と異なる意見の人物は嫌いではないし、良く練り上げられた他の意見の「内容」はむしろ参考にして自分の思考を成長させる糧に出来ると喜ばしく思う。ただ、「表現」が雑だったり、そもそも罵詈雑言や誹謗中傷を交えている時点で「聞くに値しない」と言える。意見を聞く相手への配慮を欠いている時点で、もはや論理的態度とは言えないのだから。

CIA(内部監査人)や行政書士資格から「ルールについて」、将棋の趣味から「格上との戦い方」に特化して思考を掘り下げている人間です。