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世界は不便利で溢れてる

最近の私は自動で流れる水洗式便所に対して思うことがいくつかある。自動で流れるトイレほど私を、何だかなあと、やるせ無い気持ちにさせるものはない。あれは便座に着席した瞬間に、音姫とかいう安らぎ系ミュージックを流してくれる。ここで1つ目の問題点がある。他人がそのトイレの空間にいる場合には、音姫が勝手に流れることで、人様に私の〝音〟を聞かせなくて済む。しかし私は、誰もいない静かなトイレでは、自分の〝音〟と換気扇の無機質な音のハーモニーに耳を済ませたいのである。何故か無駄な音が無い間の放尿は私をものすごくリラックスさせ、穏やかな気持ちで用を足させてくれるのである。

次に、誰しもが己の後始末としてトイレットペーパーを使って要所を拭くだろう。そのときに、2つ目の問題点がある。実を言うと、私は己の要所を拭き取ろうとする際、股を多少広げるのだ。理由はその方が拭き取りやすいからである。しかし、広げた際の微かな動きが、私のふくらはぎの裏にあるトイレのセンサーを反応させ、まだ拭いている途中にもかかわらず、水が流れ洗浄されるのである。誰が終わったと言ったんだ。私の手にはまだ、くるくるに巻かれたトイレットペーパーが残っているし、この右手の行方は何処ぞ…という感じなのだ。さらに、水が流れている間にまだ便座に座っていようものなら、水が私のお尻に3滴ほど飛び散るのである。これだけは絶対に堪えられないので決して私に触れさせない、という強い信念のもと、私はセンサーが勝手に反応したと気づいた瞬間に、一旦スクワットの途中のような姿勢になるのだ。そうすれば水が私のお尻に飛び散ることはない。私のお尻に無事に水が跳ねなかった際には「勝った」と心の中でガッツポーズをするのだ。
多くの女性も同じようなトイレでの問題点を抱え、人それぞれの入念な対策があるだろう。

一旦流れたトイレを、ただ拭いただけのトイレットペーパーを流すためにもう一度流す必要がある。これは不便極まりない。2回目は私自ら、流すボタンに触れる必要がある。これまた1度目が流れ終わるまでちゃんと待たねばならない。そうでないと2回目がなかなか反応されない。おそらくトイレ自身が「次の人間はもう終わったのか、早いな」と思っているのだろう。
最後に用を済ませ、個室から出て手を洗おうとしたときも、自動で出てくる綺麗な水がある。そんな蛇口から出る水も手を差し出したのに、出なかったり、もう良いや、隣の蛇口でと思い一歩横へスライドした途端水が勢いよく出てきたり、泡の石鹸が少ししか出なくて物足りなかったり、洗い終えたのに水がなかなか止まらなかったりと一悶着あるのだ。こう考えるとトイレは奥が深い。さらにトイレの個室は3つの密からかけ離れているのだ。

これらの自動の物たちは、おそらく便利だと思って作られたのか、はたまた節約と考え作られたのかは分からないが、もし便利だと思って作られたものならば、意外と〝不便利〟だと感じることも人によってはあるのだ。

このようにトイレ内の勝手に色々しやがる、ということだけが不便利なわけではない。例えば最近の私ときたら、以前は皆無だった〝結婚願望〟がムクムクと私の中で芽を出し始めている。なんとなく、19、20歳の頃は、結婚は不便利だと思っていた。私は1人で生きていく。なぜなら帰ってきてすぐに洋服を脱ぎ散らかし、扇風機を強にして自分にダイレクトに当て、途中まで見たドラマの続きを見ながら帰りに買ってきた食べ物を口の中に入れる。そんな自由気ままなことが結婚すると、できないと思っていたからだ。というか、そんな醜い姿を見せられないし、その自由を奪われるのであれば、結婚はするべきではない、という思考回路だった。

しかし、今の私ときたら「絶対に一度は結婚したい」なんて柄にも無いことを思い始めた。おそらく、少し大人になった私は現実に直面したのだろう。精神的にも経済的にも、1人では私は生きていけないと。もちろん私は1人でいて楽しみを自ら見つけることができるし、幸せを感じることもある。だが、それだけなのだ。特に失敗も喧嘩も助け合うことも気分が落ち込むことも泣くこともない。それって幸せに見えて実はつまらないのかもしれないと感じた。バリエーション豊かな感情をこの人生で味わうことこそが、私を幸せにするための1つの手段だ。結婚に拘らずパートナーという選択を取るのも良い。結婚をした後に、私は「結婚とは何か」を結論づけたい。全てのことに〜〜〜だ、と結論を付け、それが徐々に変化する様子が面白いし自分が成長した証となる。

人には見せられない己の醜い姿がバレる結婚は、絶対に私にとって不便利だと思っていた。しかし今の私は結婚というものは意外と便利以上に私にとって有益なものでは無いかと考え始めた。「結婚は〜〜〜〜だ」なんて結婚を経験をしていない私が語っていた。「一度は結婚した方がいいよ」と周りの大人から言われた。たしかにその通りである。結婚が違うな、と感じれば止めればいい。そしてその後のことは、その思っていたものとの違いに、直面したときに考えればいい。昨今、不便利だと感じられている結婚を私はさらに人生を面白くさせるものだと考え始めたのである。醜い姿の件は、いざ結婚生活が始まったときに対処法を考えるから、それまでにとことん醜い姿を楽しもでは無いか。

現在の私の結婚観を、若い女がキラキラ脳内お花畑で語っている、なんて思われるかもしれないが、誰しもがキラキラ明るい未来を想像してきたのではないか、明るい未来を妄想することは、至極当然のことではないだろうか。別に今すぐ結婚したいわけでは無い。私の人生において、ここぞ、というタイミングがきたら決行するのだ。何歳だっていい、私にはやりたいことがたくさんある。それを成し遂げた時か、その道中かは分からないが。父よ、母よ、私はいつか結婚をするぞ。

勝手に音を出す不便利な音姫や、許可を与えていないのに勝手に流れるトイレたちも、不便利だと思っていた結婚も全て子の人生で私は楽しみたいのである。こんな時だから、こんな世の中だからこそ、自分自身が何をしている自分が好きか考え、答えを出したいものだ。

最後に、今年幸運なことに23歳を迎える私、真央。同年代の活躍しているアスリートには大坂なおみや八村塁がいる。海外で活躍する彼ら2人が偶然にも図書館で一つの本を互いが取ろうとしたときに、手が触れ合いそこから恋が発展してくれたらいいのにな、と下世話な妄想をしながら、私はこれを書いている。エッセイスト兼翻訳家になるべく本日もこの便利と不便利と便所がある世の中を逞しくユーモアに溢れながら生きていきたい。

あちゃちゃちゃちゃ〜。