「新しい家族」の哲学をChatGPTと共創
前回までは、「高次元の少子化対策」から「新しい家族の定義」を述べてきました。
この「新しい家族」の形態とは、血縁関係ではなく、同じ価値観でつながる相互扶助の関係です。しかし、日本人には儒教思想が強いため、この「新しい家族」には抵抗感がでてしまう、と考えられるのです。
そこで、重要になってくるのは、墨子の兼愛や仏教の慈悲と言った思想です。また、現代の倫理は儒教の影響が強いですが、これも見直されなければならないと思われます。
ChatGPTと共創しつつ、話を述べていきたいと思います。
儒教的文化バイアス
儒教やその聖典である論語は素晴らし思想です。ここで言う「儒教的」とは「儒教」そのものではありません。例えば、親を大切にする「孝」、親孝行は大切ですが、家長である親の言うことは絶対であるというのは行き過ぎです。この行き過ぎを「儒教的文化バイアス」「儒教的バイアス」と私は呼んでいます。
例えば、「長男が一番偉い」「男尊女卑」など、これらも儒教的バイアスです。そして、血縁関係を過剰に重視する、これも儒教的バイアスとなります。この家族至上主義である儒教的バイアスを解放していくのが、家族や日本社会において重要である、と私は考えています。
ここまでのことをChatGPTに意見してもらいました。
儒教的文化の見直し
儒教のある点は、行き過ぎておりバランスを欠いているように思えます。特に「孝」の考え方です。
例えば、『二十四孝』には、食べ物がない時に親を優先し、子供を土に埋めることが孝行として書かれています。この話は、穴を掘ると金の釜が出てきて子供は助かるのですが、現代の私たちが読むと違和感を感じます。これは当時の時代背景などを考慮しなければいけまえんが、こうした倫理観を歴史は有してきたことを知りつつ、見直しの時期にきていると感じます。
ここから読み取れるものは、子供を育てる、ということは古代において命がけである、ということです。そして、親への強い孝の道徳が社会規範にあって、ようやく人は子供を生むことができるのだと思います。
ひと昔前は、日本でも親を施設に入れるのではなく、自宅で介護するという考え方がありました。しかし、それによって問題も多くありました。そうしたことも、儒教的バイアスの孝によるものだと考えられます。もちろん、適正な親孝行が重要なのは、言うまでもありません。要するに、バランスの問題です。
強い孝が社会規範あり、親は老後も安泰で暮らせる、これも一つの考えです。しかし、福祉などの社会制度が充実した今日では、この孝の問題も克服できると考えます。
以上をChatGPTに聞いてみました。
【ChatGPTの出力】
儒教的文化と臨床
精神分析の始祖であるジグムント・フロイトは、無意識には性的欲動が抑圧されているとします。これはキリスト教の性を否定する思想と関係します。しかし、日本では、ここまでの性の抑圧はなかったと思います(例えば、江戸時代までは祭りで男女が性を解放するなど)。
こうしたキリスト教の抑圧に対し、日本では儒教的な抑圧が強いと私は分析します。そして、家族関係が上手く行っていない場合、この儒教的な抑圧や儒教的なバイアスが非常に強いと分析しています。
例えば、何人も見てきたのは、血縁関係にない親子の関係の場合、実子を優遇し、差別的な行動をしてしまいます。酷い場合は、実子を贔屓し、血縁関係にない子を虐待するというものです。当然、子供は傷つきますし、後々の人生にまで影響が及びます(虐待を受けると脳が変形します。そして、心に歪みが生じます)。
また、実子に対しても、家として期待をかけ、過度なプレッシャーを子供にかけてしまう場合です。この「家」とか「家風」とか「名門」と言った気風が強い家庭も、儒教的バイアスが強い家庭として、私は分析しています。
「家」や「家族」と言った観念は、血縁関係の延長線上に人間の作り出したものですが、そこまで強くなければ問題はないと思います。また、能力に関わらず長男が家を継ぐというのは、争い事をなくすという知恵でもあります。
また、「家」の存続を第一に考えることで、血脈をつなぐという考えは、近年までの人口維持では、上手く機能してきたと思われます。ですから、これらを単純に悪だと決め付けるのも短絡的です。問題は、それが強すぎないことです。
※ここまでをChatGPTに聞いてみました
血縁を超える「兼愛」と「志縁」
墨子の兼愛は、現代でいう博愛主義です。
儒教的バイアスの愛は、家族や一族に限定された愛ですが、墨子の兼愛は、それよりも広い範囲の愛です。
墨子は、今で言うチームを作っており、チーム愛と言ってもよいと思います。そうした意味で、「新しい家族」も「チーム愛」としてみるのも一つかもしれません。
グループとチームの違いですが、グループは属性が同じものの集団であり、チームは共通の目的を持っています。
そうしたことから、儒教的バイアスは血縁が強く認識されますが、墨子は血縁に対する「志縁」と言ってよいでしょう。血縁や地縁を超えて、志縁で家族というチームを作っていくのが墨子の思想だと思います。
つまり、「新しい家族」とは、血縁を超えた博愛の関係であり、同じ目的を持ったチームと言えます。
【ChatGPTの注釈】
家族を超越する仏教の平等愛
仏教の慈悲は、現代において様々な観点で重要です。
仏教では、煩悩を滅却し、愛欲を取り去り、慈悲を説きます。
我が身可愛さ、家族可愛さによる贔屓(ひいき)、そして執着は煩悩であり、これが苦の原因となります。
例えば、私の臨床では、引きこもりの親の相談の場合、我が子可愛さの贔屓故に、問題が起こっていることが確認されます。引きこもりに限らず、家族の問題は、とにかく、家族との距離が近すぎるのです。
ですから、
「誰かの子を預かっているくらいに考えてください。その場合、どのような態度をとりますか?」
「感情的になってしまうのは距離が近すぎるので、距離をとりましょう」
とアドバイスしています。
では、家族へ愛情をかけないのかと言えば、そうではありません。
家族には愛情は注ぐべきです。しかし、その愛情は、社会の全てと平等に家族にも愛情をかけるのです。我が子も、我が親も、他者の子も他者の親も、できるだけ平等に愛情をかける心のレッスンが必要です。それが慈悲です。
例えば、誰かの親が癌になった、と聞いた場合と、自分の親が癌になった、という場合では、その受け止め方の重さが違うでしょう。これを平等に共感するのです。それが慈悲です。
「慈(マイトリー)」とは、楽を与える、「悲(カルナ)」とは、苦を抜くという意味です。「抜苦与楽」が慈悲です。
この文章を読んでいる方も、誰か知らない人のために、役に立つ文章を書いていると思います。それが慈悲であり、利他心です。中にはブログで稼ぎたいために書いている人もいるかもしれませんが、その自利は当然あってもよいです。自利利他のバランスがとれていれば、それは健全です。
社会の中の家族、そして自分、それらを平等に観ることは、難しいことかもしれません。しかし、「新しい家族」から「新しい時代」を創っていくには、この視点が必要になってくると思うのです。
【ChatGPTの注釈】
普遍的な愛と真理の追求
仏教の祖・釈迦は、親を捨て、妻を捨て、子供に「ラーフラ(障り)」と名付け、出家しました。これは儒教からすると非倫理的なことです。
これはジャータカに納められている逸話ですが、その逸話を知りつつ、我が国では釈迦を聖人として受け入れてきました。その理由は、仏教の教義が「倫理」を超えた「普遍的な真理」を追求しているからです。これは、釈迦が家族を捨てて出家した行為が、一般的な倫理規範からすると問題があるように見えるかもしれません。しかし、釈迦の行為は普遍的な悟りという目標に向けてのものであり、その真理を追求する過程で行われたものでした。
この視点からみると、釈迦の出家は、「自我」や「所有」、「偏った愛情」による縛りからの解放を象徴しています。釈迦が家族を捨てたのは、物質的な生活や世俗的な義務から自由になり、人間の苦しみの根本原因を理解し、それを超越する普遍的な愛と慈悲の境地に至るためでした。
また、実子であり長男であるラーフラは後に釈迦の教団に入り十大弟子となりますが、彼が教団の後継者にはなりませんでした。それは、仏教の教義が個人の開悟に重きを置いているからです。誰かが他人の代わりに悟りを得ることはできません。それぞれの人が自身の心と向き合い、自己の悟りを追求することが求められています。この思想は、個々の自己成長と自立を重視する現代社会においても非常に重要な意義を持っています。
釈迦が家族を捨てて出家したという事実は、家族を愛するという普遍的な人間の感情を超越し、全ての生き物に等しく愛情を向けるという仏教の教義を象徴しています。これは、家族を愛することが悪いという意味ではなく、自身の愛情を限定的な対象に絞り込むことなく、広く全ての存在に向けることが重要だという教えです。
釈迦の行為は、私たちが家族を大切にしつつも、他者や社会全体に対する愛と共感を忘れないという教訓を伝えています。その意味で、家族を超越した平等愛という概念は、家族だけでなく、人間関係全体、そして社会全体の理解と関わり方に影響を与えているのです。
そして、この普遍的な愛と慈悲の視点から見れば、「新しい家族」の概念も理解できます。それは血縁関係を超越した共感と理解に基づく関係性であり、それが日本社会が受け入れてきた仏教の教義と一致していると言えるでしょう。
【ChatGPTの注釈】
まとめ
私たちの人間関係や社会との接し方は、古代からの哲学や思想、信仰に大きく影響を受けています。この影響は、我々が家族や友人、そして社会全体に対して持つ価値観や感情、理解を形成し、深めるのに重要な役割を果たします。儒教、墨子の思想、そして仏教――これらの視点を俯瞰して考えてみることで、我々が人間としてどう生きるべきかについての豊かな洞察が得られます。
儒教は、個人の道徳性と社会の秩序を強調します。家族の重要性、相互の尊重、そして義務感は、我々が社会の一員としてどのように行動すべきかを教えてくれます。しかし、その中には偏見やバイアスも含まれています。儒教的視点から見ると、家族は社会の基本的な単位であり、個々の倫理行動の基盤です。だからこそ、家族に対する愛と尊重は非常に重要な値です。
一方、墨子の思想は、「兼愛」の理念を強調します。これは、全ての人々に対する等しい愛と尊重を意味します。この視点は、儒教の家族中心の愛を超越し、我々が社会全体に対して持つべき普遍的な愛と共感を示しています。
血縁を超えた「志縁」の概念も、我々の人間関係に新たな視点を提供します。共通の価値観や目標を持つ人々との深いつながりは、我々の人間関係を豊かにし、支えとなります。これは、我々が他人と連携し、共同体を形成する能力を強調します。
そして、仏教は、普遍的な愛と慈悲を教えています。これは、全ての生き物に対する深い愛情と共感を意味します。仏教の慈悲の教義は、我々が自身の愛情を限定的な対象に絞り込むことなく、広く全ての存在に向けることを教えています。
これらの異なる視点は、我々が他者や社会全体に対する深い理解と共感を育むための貴重なツールを提供してくれます。そしてそれらは、我々がどのように愛し、尊重し、他者と連携するかという問いに対する洞察を深めるのに役立つでしょう。
結局のところ、我々がどのように生きるべきかという問いへの答えは、これらの古代の教義や思想が提供する豊かな洞察の中に見つけることができます。我々の心に響く教えは、一人ひとりの人生を豊かにし、より深い理解と共感を育み、より強いつながりを築くことを可能にします。そしてそれらが、我々が適応し、成長し、そして他者と共有する能力を高めることでしょう。それこそが、我々が人間として共感し、愛し、そして連携するための真の力です。
ps.高次元の少子化対策シリーズも、よかったらご覧ください
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