【前編】ラナンキュラス号事件
太平洋の北西部に美しい弧を描いて連なる小さな島々の東側に、世界で最も深い海溝であるマリアナ海溝がある。その深さ8000メートル地点で、一人の人魚がライト片手にパトロールを行っていた。深海警察の新米保安官、カイコウオオソコエビ人魚である。周囲には彼女の他には誰もいない。人魚の中でもこの深さまで潜ってこられる種族はほとんどいないからだ。カイコウオオソコエビ人魚は殺人的な水圧に耐えられる特殊な体質を持っている。だからいつもこの海域のパトロールを任されているのだが、警棒片手に周囲を警戒するその顔には不安の色が浮かんでいた。生物のほとんど存在しないそこはすでに人魚のものではなく、彼女たちが忌み嫌うもの──カニ人たちの領域だったからだ。
カニ人。第二の人類を自称し、現生人類──すなわちホモ・サピエンスを滅ぼすべく活動する種族。彼らの間に不審な動きがあるとマリアナ海溝に住む人魚族から通報があったのは、つい数時間前の事であった。
海の水は濁っており、視界がひどく悪い。いつどこからどんな生き物が現れるか分からない。カイコウオオソコエビ人魚は手にした警棒をぎゅっと握りしめると、首から提げていた通信機のスイッチを入れた。
「本部、応答願います。こちらマリアです」
「──こちら本部のスガルだ。目標は見つかったか?」
繋がったのは彼女の上司だった。その理知的で落ち着いた声を聞くと、マリアは少しだけ自身の緊張が和らぐのを感じた。
「いえ、まだです。やけに水が濁っているので、あまり遠くまで見えません。普段はもっと見通しがいい所なんですけど……」
「そちらの位置情報を検出できない。通信障害が発生しているのか。今どの辺りにいるんだ?」
「それが……」
マリアは言い淀んだ。
「ん、どうした?」
「それが、自分が今どこにいるのか分からなくなってしまいまして……」
「またぁ……⁉︎」
いきなり通信機の向こうから聞こえてきた大声に、マリアは思わず首をすくめた。先ほどスガルと名乗った人魚ではない。横から割り込んできたのは、マリアの先輩保安官であるナマコ人魚だった。
「ひっ、ひるこ先輩……⁉︎」
「あんた、ちゃんと地図渡したじゃないの。どうしてまた迷子になってるのよ?」
「と、途中まではちゃんと地図通りに来れたんですけど、いつのまにか全然違う所に出てきちゃってまして、あはは……」
「笑ってる場合じゃないわよ。あんたのその方向音痴は保安官として割と致命的なんだから、真面目に反省しなさい」
「す、すみません……」
しゅんとするマリア。ナマコ人魚のお説教はまだ続きそうだ。だがその時、彼女の耳が微かな異音を捉えた。遠くの方で、ブーン……という唸るような音が聞こえる。マリアはペラペラと小言を喋っているナマコ人魚を慌てて制止した。
「しっ、先輩、ちょっと待ってください!」
「あん? 何よ、まさかあたしに口答えする気?」
「違います。そうじゃなくて、さっきから変な音が聞こえるんです。自然の音じゃありません……多分ですけど、これ機械の音です」
「機械?」
先ほどの落ち着いた声色の人魚──キロネックス人魚のスガルが再び通信に入ってきた。
「ひるこ、もうその辺にしておいてやれ。マリア、その音の出所は探れるか?」
「はい、いけると思います」
「注意しろよ。奴らに出くわすかもしれん」
了解しました、と返事をしてマリアは通信を切った。相変わらず鳴っているブーン……という音を辿り、砂と有機物で濁った水をやり過ごすようにして進む。音の大きさに変化はない。マリアはあれっと思った。こちらが移動しているのに音の大きさが変わらないということは、音の発生源もまた移動している可能性があるという事ではないか。水の濁りが落ち着き、少しだけ視界がクリアになってきた。行く手がなだらかな下り坂になっている。そこまで行って下を覗いてみた時、マリアは慌てて通信機のスイッチをオンにした。
「本部、至急応答願います! こちらマリア!」
「こちら本部。スガルだ。どうした? 見つけたか?」
スガルからの問いかけに、マリアは興奮を隠しきれない様子で答えた。
「はい……海底に大きな工場のようなものが建設されています」
実際には彼女が見たのは工場というよりは造船所のような施設だった。おそるおそる坂道を下り、より近くで観察してみるとその全貌がよくわかる。何らかの長くて巨大なものを収めておくための無骨な長方形の箱、両開きの門、高所作業のために設けられた足場、物資を運搬するためのクレーンや溶接のための設備など、いずれもつい最近まで使用されていた形跡がある。廃墟ではない。ここで誰かが何かを作っていたのだ。
「すごい……いつのまにこんなものを」
「感心してる場合じゃないぞ。重要なのはそこで何が作られていたかだ。それが問題だ。もっと奥に進めるか? そこにあったものがどこへ行ったのか、我々はそれを突き止めなければならない」
「あ、そ、そうですよね。すみません、私ったら……ちょっと待ってくださいね」
しばしの沈黙が流れたが、すぐにマリアが慌てふためきながら通信機に向かって叫んだ。
「管理官、ありました! 巨大な穴です。さっきの施設の近くに横穴が空いていて、奥からあの変な音が聞こえてきます」
「……よし、よくやったぞ。穴の内部には何か見えるか?」
マリアは持っていたライトで穴の中を照らしてみた。だが内部は土煙がひどくて何も見えない。
「すみません、土煙がすごくて何も……でも上に続いているようです。中に入ってみた方が良いでしょうか?」
「いや、そこまではしなくていい。君は良くやってくれた。十分な成果だ。そのまま署まで帰還したまえ」
「え、あ、はい……ありがとうございます。しかし、よろしいのですか?」
「君だけで彼らを捕縛するのは危険だ。あとは専門のチームに任せると良い」
「わかりました。それでは、これより帰還いたします」
通信終了。同時にマリアはフーッと大きなため息をついた。ナマコ人魚には怒られたが、どうやら自分は任務を達成できたようだ。管理官に褒めてもらった。後の事は先輩や上司たちに任せて、自分はゆっくり散歩でもしながら署まで戻ろう……そんな事を考えながら泳いでいると、不意にある事に気付いて立ち止まった。
「……あれ、そういえば私ってどっちから来たんだっけ?」
◆◆◆
深度200メートルより下の海をニンゲンは深海と呼ぶが、フィリピン海にある海底警察署の建物も深さ的にはその辺りにある。その2階にある会議室で、マリアとの通信を終えたキロネックス人魚の管理官・スガルは、座っていた椅子ごと後ろを振り返り、そこに居並ぶ部下たちに向かって言った。
「諸君、状況は今聞いてもらった通りだ。非常にまずい事になった」
そこにいたのはモンハナシャコ人魚、ナマコ人魚、アトラクラゲ人魚、ジュウモンジダコ人魚の四人だった。いずれも海底警察の保安官で、カラフルな体色を持つモンハナシャコ人魚のハナコが彼女たちのリーダーだ。
「まずい、とはどういう意味です? 奴らの行動に心当たりが?」
ハナコが尋ねると、スガルはああと頷いた。
「あれは十中八九、カニ人たちが作った掘削潜航艇のドックだろう。巨大な横穴はそれが掘り進んだ跡に違いない」
「クッサクセンコー……って、なに?」
ナマコ人魚の一人が言った。彼女たちは複数の姉妹で一つの体を共有するという変わった体質を持つ種族だ。この個体は四人姉妹で、向かって左から順に長女・ひるこ、次女・ふるこ、三女・みるこ、四女・よるこという名前がついている。先ほど質問したのは長女のひるこだ。
「読んで字の如くだ。地面を掘削しながら潜り進む船。海から地上に進出するルートは我々人魚族が抑えているだろう? だから連中は地面の下を通る別のルートを考えたのさ」
「考えたのさ……って、まるで見てきたかのように言いますけど、管理官は前から知ってたんですか? その掘削潜航艇とやら。うちら正直初耳なんですけど」
今度は次女のふるこが尋ねた。
「ああ、以前も似たような事を考えて実行に移そうとしたカニ人がいたからね。と言っても、まだ私が現場に出ていた頃だから、かなり昔の話だが……その時は関係するカニ人を一匹残らず始末したと聞いていたが、どうやら彼らの記憶共有を甘く見ていたらしい。アイデアが伝わってしまったんだな」
記憶共有。それはカニ人という種族の持つ極めて特異かつ厄介な能力である。彼らは個体間の記憶を何らかの方法で一族全体に共有しており、たった一個体だけに起きたミクロな体験であっても、膨大な数に上る個体群へとマクロに引き継ぐ事が可能なのである。ただし共有できるのは断片的な記憶に限られる。深い喜びや絶望、苦痛や興奮など、それがポジティブかネガティブかを問わず、心を揺さぶる感情や情景ほど共有記憶として固着しやすい性質を持つ。つまり、かつて掘削潜航艇の建造を目論んだカニ人のグループを一掃した際、逆に一掃する事によってその恐怖の記憶を他個体に伝播させてしまった可能性が高いという事だ。
「だから今回は秘密裏に建造を進めたんだろう。我々の目の届きにくいマリアナ海溝の奥深くで。まんまと出し抜かれてしまったというわけだ。これは長官に大目玉を喰らうな」
スガルがおどけたように肩をすくめると、ハナコは渋い顔をして言った。
「だとしたらのんびりしている場合じゃないでしょう。一刻も早く奴らの後を追わなくては」
「でもハナコ先輩、地面の下を潜って行かれたら、どこにいるのかわからないんじゃ……」
心配そうな顔で言ったのは、深海警察に入ってまだ日が浅いジュウモンジダコ人魚だ。髪の毛と一体化したような独特のヒレを持つのが特徴の可愛らしい容姿の人魚で、実は密かにニンゲンのカレシがいるという秘密を持っている。
「その子の言う通りよ。うちには穴掘りが得意な人魚もいないしね」
ナマコ人魚の三女・みるこが同意した。ちなみに残る一人である四女のよるこはほとんど眠っているので滅多に発言する事はない。なぜずっと眠っているのかは不明である。
「彼らが掘った穴から後を追えませんか?」
尋ねたのはアトラクラゲ人魚のアトリだ。ブルーとオレンジの派手な体色にニンゲンの女性の体をくっつけたような人魚で、六本ある触手の先端が手のように変化している。強力な発光器官を持っており、パトロールの際には遠くまで照らす事ができる。生真面目な性格の人魚だ。だがその発言を受けたスガルは首を横に振った。
「入口の位置が深すぎる。こちらから人数を送り込めない」
「あんな深い所まで潜れるの、うちではあの子ぐらいしかいませんからね」
あの子、とは先ほどまで通信していたカイコウオオソコエビ人魚のマリアの事だ。彼女もまたジュウモンジダコ人魚と同じく、最近海底警察に入ったばかりの新人保安官だ。
「かといってあの子一人に追わせるわけにもいかないしな……危険だし、何より確実に迷子になる」
続くハナコの言葉に、その場にいた全員がウンウンと頷く。マリアの方向音痴っぷりは既にフィリピン海中に広く知れ渡っていた。
「マリアは既に自分の役目を果たした。別の方法を考えるべきだろう」
「とは言っても、じゃあどうすれば……」
ジュウモンジダコ人魚が呟くと、一同はうーむと唸ってしまった。ややあってスガルが言った。
「ずっと岩盤を掘り進んでいたのでは膨大な燃料を消費する。恐らく奴らは別の方法で地上に到達しようと考えているんじゃないか」
「別の方法って?」
ひるこが尋ねると、ハナコが代わりに答えた。
「……もしかして、海底トンネルですか」
頷くスガル。
「そう。今は使われていない古いトンネルを使えば、発見される確率はかなり下がるし、燃料の消費も最小限に抑えられる」
「よし、そうと分かれば早速そのトンネルとやらを調べましょうよ。で、それってどこにあるの?」
ふるこが尋ねると、スガルはしばらく考えてから言った。
「現在発行されている海底地図には載っていないだろうな……イングリッドなら知っているかも知れないが」
「先生が? なんで?」
「あそこの図書館はかなり古い書物も収蔵しているからね。古地図の類も揃っていると思う」
ジュウモンジダコ人魚が挙手をし、スガルが質問を促した。
「古い記録といえば、オトヒメ社長に聞いてみるのはいかがでしょう? 昔の事なら色々とご存知なのではないですか?」
「着眼点は素晴らしい。だが本人の前では絶対に言うなよ。何をされるかわからないぞ」
途端にジュウモンジダコ人魚は自らの失言に気付いて青ざめた。竜宮城の主人にして人竜族であるオトヒメ社長の前で年齢の事を口にするくらいなら、一ヶ月間絶食状態に置かれたシャチ人魚に喧嘩を売る方がまだマシだった。
「まずはイングリッドの所へ行ってみよう。ハナコは私と一緒に来てくれ」
「わかりました」
「ひるこ、ふるこ、みるこは各パトロール隊へ連絡を頼む」
「よるこもね!」
ナマコ姉妹が一斉に叫んだ。
「ああ、すまん、よるこもだ。通常よりも巡回を強化するように伝えてくれ。地下トンネルの位置がわかるまでは奴らの正確な進行ルートは掴めないが、普段と何か変わった様子はないか、異常な音や光を感じなかったか、そういった所を注意して観察するんだ」
「了解! ほら、さっさと行くわよ」
「へ……? あ、私もですか⁉︎」
「当たり前でしょ、ボサッとしない!」
「わ、わかりました!」
いきなり呼びかけられたジュウモンジダコ人魚が慌てて返事をする。ナマコ姉妹はそんな後輩を追い立てるようにして会議室を出ていった。
「アトリは他の海域の海底警察へ連絡を。少しでも手数が欲しい。現在こちらに滞在中の職員がいれば応援を要請してくれ」
「承知しました!」
アトラクラゲ人魚は綺麗な姿勢で敬礼すると、キビキビとした態度で自らの役割を果たすために駆け出していった。
「さあハナコ、我々も急いで学校へ向かおう」
「はい!」
◆◆◆
警察署を出たハナコとスガルは、深度1000メートル付近まで潜り、巨大な沈没船の残骸にこれまた巨大な岩の塊をくっつけ、それを海藻やらサンゴやらで派手にデコレーションした<学校>へとやって来た。外から見ると何だかよく分からないボロボロの残骸のように見えるが、中は意外に広くあちこちが補強され綺麗になっている。これはニンゲンに対するカモフラージュの意味も兼ねているらしい。かつては大砲や弾薬などを満載していた船室が新たに設けられた間仕切りによって区切られ、用途別に異なる種類の用具が並べられた教室へと改装されている。その一室で大きな黒板の前に立って生徒たちに授業をしているのは、この学校の学長であり、また全科目を担当する教師でもあるクラーケン人魚のイングリッドであった。
「さて、人竜族の祖先が地球に誕生した理由についてはこれまでに多くの仮説が立てられていますが、原始地球と天体との衝突現象──いわゆるジャイアント・インパクトにそれを求めた人魚族の学者の名前は何でしょう? わかる人はいますか?」
<賢者>とも呼ばれるイングリッドは眼鏡の位置を直しながら言った。豊かな髪が彼女の頭の動きに合わせてふわりと揺れる。うねる触手は複雑に絡み合っていて何本あるのかわからない。生徒たちは一斉に挙手をして自分こそが答えを当ててやろうと熱心に取り組んでいる。スガルは勝手知ったる様子で教室に近づくと、窓越しに教卓にいるイングリッドに向かって手を振った。
──授業中よ。後にできない?
突然、頭の中で声が響いた。念話だ。音声・文字・身振りなどに頼らない意思疎通手段。イングリッドの触手の先端、奇妙な形の輪になったような部分が淡く発光している。彼女は若干だが竜種の血を引いており、普通の人魚にはない特殊な力を持っているのだ。ハナコなどは何度やっても慣れないなと思うが、スガルは涼しい顔をしてイングリッドに返答している。
──すまないが緊急事態だ。力を貸してくれないか。
ふう、という溜め息が聞こえ、イングリッドがパン、パンと触手を打ち鳴らして生徒たちの注意を惹いた。
「はい、注目。ごめんね、先生はちょっとだけお客さんとお話をする用事ができました。すぐに戻るので、それまでは各自で自習をしておいて下さい。遊びに行っちゃダメよ? もし後でわかったら宿題を三倍に増やしますからね」
そうしてハナコたちのいる方へとやって来た。スガルは気さくに声をかける。
「仕事中にすまないな」
「いいわよ。仕方のない事だから。ハナコさんはここに来るのは久しぶりね? 元気にしてた?」
「お久しぶりです、先生。おかげさまで元気でやっています」
ハナコが挨拶すると、イングリッドはにこりと微笑んだ。
「それはよかったわ。スガルの下にいると何かと大変でしょう? この子は頭は良いんだけど、昔から無茶な事ばかりするから」
「そ、そんな事はありません……! 管理官はとても優秀な方で、私の憧れでもあるんです」
慌てるハナコの様子に、イングリッドはクスクスと笑った。
「良い部下を持ったわね」
「ええ、優秀な子ですよ」
上司に褒められてハナコは少し赤面した。そんな自分を微笑ましそうに眺めるイングリッドの視線がどうにも気恥ずかしく、話題を変えようと自ら質問した。
「あの、それで、今回の目的なんですが……」
「ああ、そうだった。私に何か尋ねたい事があるんでしたね?」
スガルが事のあらましを説明すると、イングリッドはそれなら図書館に行きましょうと言った。この<学校>には岸壁をくり抜いて作られた立派な図書館がある。ハナコはあまり来た事がない。学生時代から本を読むよりも体を動かす方が好きだったからだ。
「ちょっと待っていて」
そう言ってイングリッドは書庫の奥へと引っ込んで行った。しばらくすると大きな紙束のようなものを持って戻ってきた。
「お待たせ。多分これだと思うわ」
そう言って、持ってきた古い地図を机の上に広げる。それは地下に無数に走っている海底トンネルの正確な位置を記した地図だった。全体的に黄ばんだりシミができたりしているが、判読に支障はない。縦六十センチ、横一メートルほどの大きさの色褪せた紙の上に黒いインクで描かれた線が縦横に走っている。その一本一本が実際にトンネルを表しているのだとしたら、その数は膨大だ。ハナコは軽い驚きと共にその線に見入っていた。
「赤でバツがつけてあるのは、塞がっているという意味ですか?」
ハナコの問いかけにイングリッドは頷いた。
「そう、落盤とかでね」
そのまま触手で地図の上をなぞり、やがてある一点を探し当てて言った。
「あなたの部下がマリアナ海溝で見つけた横穴というのは、この辺りにあったのよね?」
トン、と指し示すと、スガルは頷いた。
「凄まじく方向音痴な子だがな。正直、座標は半分当てずっぽうと言っても過言ではない」
「……何でそんな子を追跡任務に当てたのか、理由を聞いても良いかしら?」
「他にそんなに深くまで潜れる保安官がいなかったんです」
ハナコがフォローすると、イングリッドはああ、と呟いた。
「なるほど、それなら仕方ないわね。ちなみに穴はどっちの方向に続いてた?」
「北北東だ」
「そこから一番近くて、なおかつ穴のサイズから推測される船体が通れるような大きさのものだと……ここね」
イングリッドは一本の線を指差した。
「昔の人魚族がニンゲンとの秘密の交流に使っていたものだわ。これなら地上までほぼ直通よ。他のトンネルとの合流点も少ないから、待ち伏せを受けるリスクも低いわね」
「……考えたな」
スガルの苦々しげな呟きに、イングリッドも同意した。
「ええ、よく調べた上で考案された計画だと思うわ。かなり頭の回る個体がいるわね」
「……奴らにそんな知恵があるでしょうか?」
ハナコが思った疑念をそのまま口にすると、イングリッドは優しく諭すように言った。
「カニ人を侮ってはいけないわ。個々は愚かで軽率な種族でも、集団になった時の彼らのパワーと団結力は計り知れないの」
イングリッドの許可を取り、古地図を写させてもらう事にした。ハナコが必要な部分の写真を撮影している間に、スガルはかつての恩師と話し込んでいる。
「古いトンネルなら竜種の方が詳しいけど、生憎今はオトヒメ社長が留守なのよね」
「そうだったのか。伺うべきか迷っていたが、先にこっちへ来て良かったな。危うく無駄足になる所だった」
「一応、にしきにも相談してみなさい。何かあった時にすぐ動いてくれるでしょうし、この辺の事なら私以上に詳しいから」
「わかった。色々とすまないな」
ハナコが撮影を終えると、三人は図書館を出た。再び教室の前までたどり着くと、生徒たちが窓からハナコたちを物珍しげに見つめている。スガルがおどけて手を振ると、彼らはびっくりした様子で素早く教室の中に戻ってしまった。
「おやおや」
その様子がどこかおかしく、ハナコとイングリッドは顔を見合わせてクスクスと笑った。
「……当時は何も思いませんでしたけど、ここにはカニ人の子供も通っているんですよね」
教室内でひそひそ話をしている生徒たちを見ながらハナコは言った。人魚の子供たちに混じって幼いカニ人たちがいる。
「ええ。どんな種族であろうとも、学ぼうとする意志があれば私の大切な生徒よ。それが例えカニ人であってもね」
「私も子供の時分はよく一緒に遊んでいたな……大人になるとあんなに憎たらしくなるのに、確かに今となっては不思議なものだ」
「実に興味深い謎の一つね」
冗談めかしてイングリッドが言うと、そうだな、とスガルも笑った。
「……それじゃあ、私はそろそろ教室に戻るわね。生徒たちをあんまり待たせるわけにもいかないし」
「ああ、時間をとらせて悪かったな。助かったよ」
「ありがとうございます。ご協力に感謝します」
スガルが礼を言い、ハナコが頭を下げる。
「どういたしまして。何かあったらまた連絡をちょうだい」
教室に入っていくイングリッドを見送って、ハナコたちは学校を出た。
「よし、我々も署に戻るぞ。事態は一刻を争う」
◆◆◆
再び海底警察署の会議室。イングリッドから写させてもらった地図を広げて、ハナコたちは作戦会議を開いていた。ナマコ、アトラクラゲ、ジュウモンジダコなど、それぞれに与えられた任務を終えた仲間たちも戻ってきていた。さまよえる新人保安官、カイコウオオソコエビ人魚のマリアも帰還していた。またしても盛大に迷子になったようで、たまたま同じ目的地に向かっていた人魚に発見され案内してもらえなければ、今ごろはインド洋あたりまで行っていたに違いない。
その「たまたま同じ目的地に向かっていた人魚」というのが、新たにカニ人捜索隊に加わったメンバー、ドリモネマ人魚のドリマであった。鮮やかな白色の制服を着こなし、真っ赤なグローブを着けた逞しい二本の腕には、大剣のような十手を一本ずつ持っている。普段はカリブ海底警察に勤務する彼女は非常に勤勉な性格で、非番であったにも関わらずアトリからの応援要請に快く応じてくれた人魚の一人であった。
「──先ほど説明した通り」
スガルがホワイトボードのようなものに作戦を図示しながら説明する。
「奴らは周到に準備した上で今回の行動を起こしている。恐らく深度2000メートル付近までは海底トンネルを利用して進行、ある程度まで近づいたら一気に掘削をかけて地上に出るつもりだろう」
一度地上に出られたら最後、カニ人たちの行方を追うのは困難になる。ニンゲンは六十億もいるのだ。紛れ込まれたら見つけ出すのは不可能に近いのである。地下にいるうちに叩いておく必要があった。
「奴らが利用していると思われるトンネルは合流点が少なく、待ち伏せできるポイントは限られている。恐らく向こうも奇襲は想定済みだろうが、それでもやらなければならない。他の方法を考えている時間的余裕はない」
スガルは地図上に赤い丸をつけたポイントを指し示した。皆の注目がそこに集まる。それは深度2000メートルの辺りにある、今はもう使われなくなった廃トンネルの入り口だった。
「リーダーはハナコだ。ここからトンネル内に侵入し、合流点に先回りしてカニ人たちを叩け」
「今からで間に合うの?」
ナマコ人魚の三女、みるこが尋ねた。
「絶対とは言えない。だが間に合うはずだ……いや、間に合わせなければならない。それが君たちに課せられた使命だ」
スガルの指令に、ハナコは姿勢を正して敬礼した。
「了解しました。ハナコ以下、計8名で現場へ急行します。全員、行くぞ!」
「了解!」
威勢の良い返事が会議室を揺るがした。
◆◆◆
海底警察署を出たハナコたち一行は、スガルの指示したポイント、今はもう閉鎖されているトンネルの入り口まで潜って行った。フェンスにかけられていた鎖をドリマの十手でちぎり、アトリが真っ暗なトンネル内を発光器官で照らす。異常がない事を確認した後、続いてナマコ姉妹とジュウモンジダコ人魚、その次にハナコとドリマ、最後はカイコウオオソコエビ人魚のマリアが入る。狭いトンネル内をなるべく音を立てないようにしながらすばやく進むと、やけに周囲が蒸し暑くなってきた。壁の亀裂が鮮やかなオレンジ色に光っているのは、どうやらこの辺りにマグマ溜まりが出来ているのが原因のようだ。ハナコたちは急いでそこを通り過ぎねばならなかった。いかに人魚の表皮が頑丈といっても、マグマの熱量をまともに浴びればタダでは済まない。このトンネルが使われなくなったのは、その辺りに原因があるのではないかとハナコは推測した。
管理官であるスガルは現場に同行せず、警察署に残ってハナコたちと通信でやり取りしている。状況全体を俯瞰し、任務達成を目指すために人的・物的資源を管理するのが彼女の役目だからだ。
トンネルの壁には奇妙な彫刻が施されていた。ハナコには読めない文字や意味の分からない記号がびっしりと彫り込まれている。かなり古い時代のもののようだが、その意味や由来を考えている暇は今のハナコたちにはなかった。曲がりくねったトンネルをどんどん先へ進まなければならない。
「ちょっと、遅れてるわよ? もっと速く泳げないの?」
ナマコ姉妹の長女・ひるこが後ろにいるジュウモンジダコ人魚を急かした。
「せ、狭いし暗いしであんまり速く泳げないんです…! それに先輩だってそんなに変わらないじゃないですか…!」
思わず言い返したジュウモンジダコ人魚だったが、すぐに自らの発言が失言だったと気付いて口を噤んだ。
「なに?」
「い、いえっ、すみません、なんでもないです…!」
じろりとナマコ姉妹に睨まれ、すぐに謝罪の言葉を口にするジュウモンジダコ人魚。だがナマコの怒りは収まらなかったのか、さらに小言を繰り出そうとするのを、後ろに続いていたハナコが制した。
「静かに。もうすぐ奴らの進行ルートとの合流地点だ。気を引き締めろ」
「……っ、ごめんなさい」
バツが悪そうに謝罪するナマコ姉妹。だがその後すぐに怒りを込めてジュウモンジダコ人魚を睨む。あとで覚えてろよ、というメッセージがはたから見ても分かるほどに込められている視線だ。当のジュウモンジダコ人魚は冷や汗をダラダラ流しながら、この先で起こるであろう戦闘でナマコ人魚がいい感じに負傷して、しばらくリュウグウノツカイ人魚の病院に入院してくれる事を天に祈った。
「もう一度確認しておくが、生捕りにするのは一体でいいんだな?」
ハナコの背後からドリマが声をかけた。
「ああ、それで良い。奴らは記憶が繋がっているから、どれを捕まえても情報は引き出せる」
実際には共有されているのは断片的な記憶であり、強い感情が引き出されるような体験をした時に限り共有記憶がネットワークに定着する仕組みになっている。よって全個体が全く同じ記憶を有しているわけではないのだが、ある程度必要な情報を引き出す事はできるだろう。そういう意味ではハナコの発言も間違いとはいえない。ただし当日にアーカイブ化された記憶は十分な睡眠を取らないと各個体に反映されないので、不眠症気味のカニ人の記憶共有には若干の欠落が見られるという報告も一部の人魚から上がっている。
「とはいえ、できればリーダー格を押さえるのがベストだ。ヒゲの生えてるやつ」
「その辺はどこでも一緒なんだな。カリブでも上位個体にはヒゲがあるよ」
「そいつを捕まえたら、後は全部ちぎって投げても構わない。よろしく頼む」
「了解した。カリブの保安官の名を貶めないように励むとしよう」
ドリマの頼もしげな様子に、ハナコは満足して頷いた。
「そろそろ合流地点です」
先頭を行くアトリが低く抑えた声で呟いた。皆の緊張が高まる。トンネルの中にいるので分かりにくいが、深度は恐らく4000メートルに近い所まで来ているはずだ。造船所のあったマリアナ海溝から浅海までのちょうど中間地点に当たる。そろそろカニ人たちの船がここを通るはずだった。
と、その時、いきなりアトリの発光器が激しく点滅を繰り返し始めた。
「おい、どうした、大丈夫か……⁉︎」
慌てるハナコ。だが光の点滅は止まる気配がない。
「ご、ごめんなさい……! 急にライトの調子がおかしくなってしまったみたいで……」
「ちょっと、何やってんのよ⁉︎ アイツらに気づかれちゃうじゃないの。早く消しなさいよ!」
ナマコ姉妹が叱責する。ジュウモンジダコ人魚や最後尾にいたマリアは慌てふためくばかりだ。その時、一人だけ進行方向を見ていたドリマが低く呟くように言った。
「いや、もう遅いみたいだぞ」
その言葉に全員が振り向く。トンネルの向こうの闇から何かが近づいてくる音がする。それは腹の底にくるような振動であり、獣の唸り声にも似たエンジンの駆動音であった。
「……っ! これ、これです! 私が聞いた変な音……」
マリアが叫び、音の源を指差した。まだぼんやりとした姿しか見えないが、ともかく巨大なものだという事だけは分かる。やがてそれがライトの届く範囲に入ってきた時、ようやく全貌が明らかになった。それは言うなれば<花の化け物>とでも呼ぶべき異様なシロモノだった。全長は20メートルほどで、ずんぐりして頑丈そうな胴体部から魚類のそれに似た大きな鰭が合計3枚生えている。生物でいえば頭部に当たる前面部に、開花前のラナンキュラスの蕾のようなパーツが付属しており、恐らくそれで硬い岩盤を掘り進むのだと思われた。
「な、なにあのキモいやつ……アレが船なの……⁉︎ あんなの見た事ないわよ!」
ひるこの叫びにハナコも内心で同意する。アレはなんだ。本当に船なのか。すると突然、彼女たちの目が眩み、視界が真っ白に染め上げられた。
「きゃっ! ちょっと……なによ⁉︎」
保安官たちが悲鳴を上げた。<花の化け物>の探照灯から強烈な光が放たれ、彼女たちを照らしたのだ。ここにおいて奇襲が完全に失敗した事をハナコは悟った。
「管理官、応答して下さい。こちらハナコ!」
「ハナコ、こちらスガルだ。どうした?」
通信機を起動し、ハナコは現在の状況を説明する。
「奇襲作戦は失敗。向こうに気付かれました。これより本隊は敵カニ人の掘削潜航艇を攻撃し、可能な限り足止めを行います。よろしいですか?」
「……やむを得ない、許可する。必ず奴らの進行を阻止しろ」
「了解、通信終わります……全員、聞いたか? これより本隊はカニ人との戦闘に入る。全員私の後に続け──行くぞ!」
ハナコの合図と共に、保安官たちが掘削潜航艇めがけて殺到した。ハナコ以外は手に様々なデザインの十手を構え、謎の船に近づいていく。<花の化け物>は鰭をゆっくりと動かしながらハナコたちのいる方へ進んでくる。まるでそれは船というより巨大な怪魚といった有様だった。
ハナコたちがある程度まで接近すると、船体上部にあるハッチが開き、中から見慣れた姿のカニ人たちが飛び出してきた。各々の手に竹槍のような武器を持ち、船にとりつかれまいと必死に妨害してくる。先頭を行くハナコは、飛びかかってきたカニ人の顔面に思いきりパンチをお見舞いした。<ダクティル・ヒール>と呼ばれる棍棒上に膨らんだ前脚が視認できないほどの速度で放たれ、竹槍を構えていたカニ人の顔面をぐしゃりと砕いた。仲間の無惨な姿を見たカニ人が、悲鳴を上げてその場に硬直する。
「バカ、足を止めるなカニ!」
どこから飛んできたのか分からないが、その警告は正しかった。戦闘中に棒立ちになるなどという愚を犯す者をハナコは決して見逃さない。次の瞬間には上から撃ち落とすような右のパンチが炸裂していた。足場にしていた岩の塊ごと粉々にされたカニ人の体の破片が、まるで雪のように海中に舞い上がった。
「ヤアアアァァァァ!」
恐怖にかられたカニ人たちは雄叫びを上げ、二方向から挟み撃ちにしようと迫ってくる。ハナコは落ち着いた様子でどちらが先に自分の間合いに入るかを瞬間的に見極めると、拳を胸の前に構え、わずかに前傾姿勢になると同時に下からすくい上げるようにアッパーを放った。突き出された竹槍の穂先は、ダクティル・ヒールに衝突した瞬間に砕け散った。この棍棒状の前脚は内部組織が螺旋状に組み上がった特殊な構造をしており、外は硬く中は柔らかいため刃物の類を通さない。しかもそれで終わりではなかった。
「カニ……⁉︎」
竹槍を壊されたカニ人の視界がぐにゃりと歪む。目の前に透明な球体のようなものがあって、それが光を屈折させているのだ。何だこれはと思ったのは、ほんの刹那の事。次の瞬間には鋭い破裂音がして彼の体はバラバラに吹き飛んだ。まるで顔の前で手榴弾が爆発したかのようである。これこそモンハナシャコ人魚がカニ人たちに<悪魔>と恐れられる所以──キャビテーション現象を利用したセカンド・インパクトであった。
ダクティル・ヒールの内部は数種類の筋肉と複雑な形状の骨格で構成された精密機構になっている。拳打の直前、まるで弓を引くような腕の動作で蓄えられた弾性エネルギーは、止め金の役目を果たす構造体がパチンと外れた瞬間に解放され、猛烈な運動エネルギーへと変換される。瞬時に前方へと展開されるダクティル・ヒールからもたさられる初撃はメカニカルなインパクトだ。これだけでも非常に強力なもので、同じ人魚族であろうともまともに食らえば怪我ではすまない。だが本当に恐ろしいのは目に見えない二撃目だ。初撃が目標に命中した瞬間、高速で引き戻される腕の周囲の海水は急速に減圧され、圧力差によるキャビテーション現象が起こる。それにより腕の周りに生じた気泡が破裂すると、初撃に匹敵するほどの二発目の衝撃が目標物を襲うのだ。
この破壊力をまともに受け切れるカニ人などこの世に存在しない。あらゆる身体能力を爆発的に高める代わりに2秒しか持続時間がない<超カニ人モード>であっても、防御した腕ごともぎ取られるほどの威力なのだ。
ハナコは己に近づく者すべてを木っ端微塵にしながら掘削潜航艇へと近づいていった。ナマコとジュウモンジダコ人魚はちょこまかとすばしっこいカニ人の動きを捉えるのに手間取っている。ドリマはさすが荒くれ者たちが跋扈するカリブで実戦経験を積んでいるだけあり、巨大な十手を巧みに操って周囲のカニ人たちを薙ぎ払いながら着実に船へと近づいていた。
残りあとわずかという所で再びハッチが開いた。現れたのは口元にちょびヒゲを生やしたカニ人だ。
「そいつがリーダーだ! ハナコ、気を付けろ!」
ドリマが叫んだ。ちょびヒゲはハナコの方をじっと見ている。何かよからぬ事を考えているのだろうと思った。だが何を企んでいるにせよ、ハナコが船に辿り着く方が早い。もう手遅れだ。鋭く息を吸い込み、渾身のパンチを船体側面にお見舞いする。耳を聾するような打撃音がトンネルにこだました。
「痛っっっ……!」
殴った拳に激痛が走り、ハナコは思わず声を上げた。予想外の硬度を持つ装甲だ。ダクティル・ヒールが破損したかもしれない。それほどの痛みだった。だが全力を込めて殴ったはずの船体表面には傷一つなく、わずかに凹みができている程度だった。
「ワハハハ、いい気味カニ!」
ちょびヒゲは痛みをこらえているハナコを見て笑った。
「油断したカニね。このラナンキュラス号の装甲は人魚ちゃんたちのパワーを計算に入れて設計されているカニ。素材は地下深くから掘り起こされた特殊な金属で出来ているから、モンハナシャコ人魚ちゃんの必殺パンチでも百発くらいは耐えられる計算カニよ」
「な、なんだと……⁉︎」
ハナコは驚愕していた。今の話は本当だろうか。カニ人の事だから、いつも通りホラを吹いている可能性は否定できない。だが先ほど殴った際に感じた強度は本物だった。まだ腕が痛い。実際に百発も耐えられるかは分からないが、あのラナンキュラス号とやらを破壊する前に自分の腕が使い物にならなくなるのは確実だった。
「だそうだが、どうする?」
追いついてきたドリマが尋ねてきた。ハナコは必死に考えを巡らせ、あるアイデアを口にした。
「……装甲はあらゆる箇所が同じ強度を持っているとは限らないはずだ。どこかに脆い部分がある」
その時まで余裕の高笑いをしていたちょびヒゲがギクリとした。どうやら図星だったようだ。実は予算の都合で地下の希少金属をふんだんに使用する事はできず、最も攻撃を受けやすいであろう前面部と側面の一部を集中して補強していたのである。それ以外は普通の素材が使われていた。
「弱点を探すんだ。皆で一斉に叩くぞ」
「なるほど、了解した」
ドリマがニヤリと笑って自身の髪の色と同じ銀色の十手を構え直した。ナマコとジュウモンジダコ人魚も追いついてきてハナコたちの横に並ぶ。
「話は聞いたわ。あたしたちも行くわよ」
「はい、先輩!」
カイコウオオソコエビ人魚のマリアの姿は見当たらない。恐らくまた迷子になってその辺を彷徨っているのだろう。アトリの姿も見えないのが気になったが、今優先すべきは彼女らの安否よりも、このラナンキュラス号とやらを確実に食い止める事だ。ハナコたちはジリジリと船を包囲していった。
「抵抗はやめろ。ここにいるのは腕利きの保安官たちばかりだ。まもなく船は破壊される。お前たちもひどい目に遭うぞ。そうなりたくなければ大人しく投降するんだ」
ハッチに立ったままのちょびヒゲはしばらく無言だった。四人の人魚、それも戦い慣れした武装保安官に囲まれれば、普通のカニ人ならば泡を食って逃げ出す。ハナコも最初はそうなるだろうと思っていた。黙っているのも自分が追い詰められた事を悟り、パニックに陥っているのだろうと。だが実際にはそうではなかった。このちょびヒゲカニ人の能力はハナコの予想を何倍も上回っていた。
「……ククク」
「何よ、追い詰められておかしくなったわけ?」
ナマコ姉妹の誰かが言った。だがそうではなかった。これは余裕の笑みだった。
「くっくっく……そう来ると思ったカニよ。ならばこちらも必殺技を使わせてもらうとするカニ」
そう言うと、ちょびヒゲはハッチの奥から何かを取り出した。ハサミの先に持っているのは長方形の物体だ。だがハナコのいる位置からは遠すぎる。目を凝らしてよく見ようと思った瞬間、背後から突然甲高い悲鳴が上がった。驚いて振り返ったハナコの手足に触手のようなものが絡みついてくる。
「なに……⁉︎」
振り返った先にいたのはアトリだった。今までどこにいたのか、しかしその表情はひどく怯えており、尋常な様子ではなかった。物凄く切羽詰まったような顔をしている。
「アトリ、何やってるんだ。これは一体どういうつもりだ……⁉︎」
「ごごごごごめんなさいハナコさん……! でも、でも……もうこうするしかないんですうぅぅぅぅ……!」
「ぐっ……おい、やめ……」
絡みついた触手に全身を締め上げられ、ハナコは身動きが取れなくなった。異常事態に気付いたドリマが慌てて駆け寄ってくる。
「おい、何してるんだ!」
「……っ!」
アトリは真正面からやって来たドリマに発光器官を向けると、深海のトンネルすら明るく照らせるそれを最大出力で光らせた。
「うわっ!」
膨大な光量によって周囲が真昼のように明るくなる。直撃したドリマは一時的に視力を奪われ、よろめくようにしてその場に倒れ込んでしまった。
「ちょっとアトリ、あんた何してんのよ⁉︎ 気でも狂ったの⁉︎」
怒り狂ったナマコ姉妹が拳を振り上げて叫ぶと、アトリは謝罪の言葉を述べながらもそんなナマコやジュウモンジダコ人魚にも発光器官を振り向けた。
「げっ、やばい……!」
「ごめんなさい、ごめんなさいぃぃぃぃ!」
目をやられてはたまらないとナマコたちは近くの岩場に避難する。
「ご苦労カニよ、アトリちゃん!」
ふいにカニ人の声が聞こえて、拘束されていたハナコはハッと顔を上げた。彼らはすでに生き残りを回収してラナンキュラス号に乗り込み、トンネルの奥へと進んでいる。追いかけようにも手足を締め上げられている状態では無理だ。あのちょびヒゲ個体がハッチから上半身だけ後ろ向きに乗り出した状態で、勝ち誇ったように腕を振り上げている。
「君のおかげで我々はついに一族の悲願を達成できるカニ! 今日という日を決して忘れないカニよ。記念碑には君の名前を刻むと約束するカニ。それでは人魚ちゃん諸君、また会う日まで、アディオス・アミーゴカニ!」
ラナンキュラス号はみるみる遠ざかっていく。焦ったハナコは必死になって拘束をふり解こうともがいた。
「……っ、やめて下さいハナコさん! お願いですから、どうか大人しく……」
だがこれはアトリの注意を自分に向けさせるためにハナコが仕掛けた罠であった。その隙に背後から近づいていたナマコとジュウモンジダコ人魚が同時に飛びかかり、アトリを地面に押さえつけた。
「し、しまった……!」
ナマコは体内から<キュビエ>と呼ばれるヒモ状の物質を出してアトリを近くの大岩に縛り付けた。
「さあ、どういう事かちゃんと説明してもらおうか……?」
額に青筋を立てて激怒しているハナコに詰め寄られ、観念したアトリは全てを白状した。
(後編に続く)