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「なんで勉強するの?」に答えてみる

「なんで勉強しなきゃいけないの?」
たぶんほとんどの人が小さい頃に考えたことがあるんじゃないでしょうか?
ここ数年、日本の教育改革が進み「教育」の在り方が見直されていますが、もれなく僕も教育事業に関わり始めてから「教育はどう在るべきなんだ」という問いを繰り返しています。
これにはもちろん確信的な答えがある訳ではないですが、今日は僕なりに今の段階で考える「教育は何を目的にするのか」についてまとめます。

「賢い」とは何か

学校の勉強はなぜしなければならないのか?
いろいろな考え方があるとは思うけれど、とってもざっくり考えてみると「将来社会に出て仕事して幸せになる為」という答えで大きくは外れてはいないと思います。
その為には「賢くなる」ことが必要で、その賢さを手に入れる為に勉強するというのが自然な考えだと思います。

それでは「社会に出て仕事して幸せになる」為に、手に入れるべき「賢さ」とはなんなのでしょうか?

これまで学校教育の世界では偏差値という評価軸が「賢さ」の指標だった訳ですが、僕なりに思う「賢さ」の定義はもう少し根本的なところを考えています。
それは「複雑性に対する理解力」であり「あるものをあるままに誤解なく理解する能力」だと思っています。

これはガンダムの富野監督のニュータイプ論に通じる話ですね。(๑• ̀д•́ )✧+°ミエルッ!
いや、それは子供が見るアニメの話でしょ?と言われそうですが、賢さについて考察した時に「ガンダム」というSF作品を作ることが出来た富野監督は異常な賢さを持ってるし、言ってることは案外馬鹿にならないと思うのです。これについては後から説明します。

ひとまず結論を先に述べると、「なぜ勉強するのか?」の答えは「将来社会に出て仕事して幸せになる為に、複雑性に負けない能力を身に付けることが必要だから」ということになります。

人間vs複雑性

仕事がうまくいかなかったり、人間関係がうまくいかなかったりすることのあらゆる原因は「こうすれば良いと思っていた」というような“誤解”にあると僕は考えています。つまり誤解さえなくなれば「将来社会に出て仕事して幸せになる」ことが出来る。

ではなぜ人は“誤解”するのでしょうか。
それは大抵の問題は複雑で、その複雑さを超えられないからだと思います。

例えば仕事の話。
ある商品を販売しようと思った時に、シンプルに「商品を売る」ことだけを考えることは出来るでしょうか?
ほとんどの場合は「売れればなんでも良い」ということではなく、「消費者に価値のあるものを届ける」ことや「利益も十分に担保出来る」こと、「競合との差別化を図る」こと、最近では更に「環境に優しい商品」であることなど様々な条件を一度にクリアしないといけません。
しかしそれらの複雑さを理解出来ないことで「利益の為に価値のないものを届けて評判が悪くなる」とか「良い商品を作ってるはずなのに他社の商品に負けてしまう」とかそういった問題が発生します。

人間関係も同じで、他人の気持ちや自分の気持ちもシンプルなようでいてとっても複雑なもの。「好きだけど一緒にいたくない」とか「頭ではわかってるけど気持ちがついていかない」みたいなことが原因で問題になることが往々にしてあります。

つまり人間は生きる中で常に複雑性と戦っていて、その戦いに負けてしまった時に“誤解”が発生するということです。

アメリカの社会学者であるレベッカコスタは社会問題の複雑さが人間の知能を超えた時に認知閾という領域に達てしまうと語っています。
認知閾については「社会問題」のような大きな問題に関わらず僕たちの日頃の問題にも当てはまるのではないでしょうか?

認知閾
・反対はするが対策はない
・個人に責任を転嫁して問題を解決したと酔いしれる
・怪しげな因果関係に飛びつく
・物事の原因が不明でも何か一つにこじつける(タブロイド思考と同様)
・緩和策や応急処置に満足し根本問題を先送りする
・問題を細分化してより複雑にしてしまう
・行き過ぎた経済偏重行動をとる
      レベッカコスタ『文明はなぜ崩壊するのか』より

究極の知的生命体『三体人』

「三体問題」という言葉を聞いたことがあるでしょうか?

上記の動画で長沼教授がわかりやすく説明してくれていますが、3つの天体が万有引力の相互作用でどう運動するかということを完全に予測することは出来ないという問題です。(近似値は出せます。)

この問題は中国の作家がSF小説にしたことでも有名になりました。
その小説の中では太陽が3つある太陽系に住む異星人が地球侵略にやってくる?ような話ですが、その異星人「三体人」は生存の為に三体問題に対応してきたことで地球人類を凌駕する知能を持っているという設定です。
僕はこの「三体人」は「ニュータイプ」とニアリーイコールだと考えています。

そして「三体問題」は物理に限った話ではないかも知れません。
例えば人間関係でもこの世界に元々自分とAさんという2人の人物しかいなかった場合、この2人は話し合うことで完璧に理解しあうことは出来る。
だけど実際にはお互い生まれた時から両親や先生、友達だったりと不特定多数の複雑な影響を受けているから「なぜ相手がそう考えるか」を完璧には理解出来ない。(これもたぶん近似値は出せる。)
つまり「三体人≒ニュータイプ」になれば人間関係に関するトラブルもなくなるとも考えられます。

では三体人ではない人類は複雑さに打ち勝つことが出来ないかというとそうではなく、大切なのはその複雑な問題を「考える」ことで答えに近づくことだと思うのです。

これまでの教育の弱点

2020年に改定された新学習指導要領ではアクティブラーニングをベースにした教育に舵を切っていますが、それまでの教育の在り方は先ほどの“複雑さ”に対応するものというよりも、常に答えは一つという“シンプル”なものが多かったように思います。
そういった「シンプル思考」を続けることで“複雑さ”に対応する能力は衰え知らぬ間に“シンプル”に考えてしまう癖がついてしまっているように僕は感じています。

しかし、むしろ戦前の日本の歴史の授業の方が面白くて、明確な答えのある歴史的事実関係を教えること以外に「あなたが信長なら延暦寺を攻めますか?」とか「延暦寺を攻めていなかったらその後の日本はどうなっていたと思いますか?」という問いを立てるということが行われていたといいます。

「歴史のIF世界」という答えのない問いに立ち向かう為には、IFによって玉突き的に生じる複雑な影響を考えなければなりません。
しかしそれによって複雑性に対する理解が深まり「賢さ」を手に入れることが出来るということだと思うのです。

ちなみに先ほどの「ガンダムの富野監督はとんでもなく賢い」という話はここに通じます。機動戦士ガンダムという作品は「ミノフスキー粒子という架空の物質が存在するIF世界」を舞台にしたサイエンスフィクションであり、このミノフスキー粒子という「電波妨害を起こす物質」の存在によって本来なら非効率な二足歩行ロボットによる白兵戦という設定にリアリティを持たせています。
このガンダムのIF世界は非常にリアルにシミュレーションされていて、富野監督がいかに複雑なものを紐解く能力が高いかということを窺い知ることができます。

子どもは元々ニュータイプかも知れない

そんな訳で改めて僕の思う教育の目的は「将来社会に出て仕事して幸せになる為に、複雑性に負けない能力を身に付けてもらうこと」ということになります。

その為の“哲学対話”であったり“経営体験”や“農業体験”という複雑で答えを出しにくい問いに立ち向かう機会を提供しているのですが、よく「子どもにそんなこと難しいんじゃないか?」と言われることがあります。
しかし個人的な肌感覚としては子ども達の方が複雑さを克服する能力は高いと感じています。

これは完全な仮説というか妄想ですが、生まれた時から父親と母親という2つの太陽の元で三体問題に立ち向かっているからじゃないかと思っています。1歳未満の乳児でも3までの数は感覚的に認識出来ているという話も興味深いです。

教育次第ではSFに出てくる三体人やニュータイプのような存在も生まれてきて、現在の社会が抱える超複雑な問題も解決してくれるかも知れません。

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