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「本当の」私に会いにいく

うさぎパンチと怪獣

幼い頃、私は自分が最強だと思っていた。
うさぎのパペットをつけて、兄にうさぎパンチをかまし、親には「怪獣がやってきたー!」と言われた。
小学校で鬼ごっこをしてる時、校庭を縦横無尽に走り回ってる自分は「無敵」だと信じていた。誰も私を捕まえることはできない、と。
数十名のクラスメイトを集めて「どんぐりハウスコミュニティ」を運営していた。パンフレットや名簿を作り、毎週号令をかけ、日が暮れるまで遊びまくっていた。

「私、最強」

でも今の私は、全く違う人間。
自分に自信はないし、周りにどう見られているかが気になる。相手の言葉や雰囲気を敏感に察して、相手に合わせて自分を変えたり、勝手に傷ついてしまう。自ら中心となってコミュニティを作るなんて、もってのほか。そもそも人見知りだし、大勢の人と同時に関わるのは苦手だし、誰も参加してくれなかったら恥ずかしいでしょ?と思う。

20年の間に、何が起きたんだろう?
私という人間は変わったのか?何かを失ったのか?
それとも、欲しくないものを手に入れてしまったのか。


人生を変えた一冊『UNTAMED』

最近、人生を変える一冊に出会った。
Glennon Doyleの『UNTAMED ー「本当の」わたしに会いにいくー 』

社会や他人に「期待される自分」に閉じ込められ、息苦しく人生を送っていた作者が、少しずつ「本当の自分」を見つけ、解放されていくエッセイ集。

"tame"の意味・対訳
飼いならされた、人になれた、おとなしい、柔順な、すなおな、無気力な、ふがいない、精彩を欠く、力の乏しい、単調な

https://ejje.weblio.jp/content/tame

社会や他人に飼いならされ、暗黙のルールに柔順に生きることが当たり前になっている私たち。いくつもの厚い層に覆われ、本当の自分は埋もれてしまっている。
そんな自分を”un-tame”して、自分らしさを爆発させて生きていこうよ、そんなメッセージが込められた本。

個が強いと言われるアメリカでも爆発的なヒットとなったUntamed。
コーチの仕事を通して、大勢の人が自分らしく生きたいと願っていることを知りました。気になる方は、ぜひ読んでみてください。


社会に適合する、いびつな私

私の場合、中学1年生の時に"tame"されるきっかけがあった。
ポロッと友人を傷つけることを言ってしまい、そこから3ヶ月”ハブられる”ことになった。毎日学校に行くのが憂鬱で、お風呂の中で、このまま溺れてしまおうかと思うこともあった。極度のいじめでは全くなかったけれど、毎日無視される人生は、それだけ辛かった。

正直、その頃の自分を弁護するつもりはない。自分はそれなりに人気者だと、調子に乗っていたのだろう。
でもその3ヶ月を経て、私は人の顔色を伺うこと、人に好まれることを言うこと、そして嫌われることへの恐怖心を身につけていった。
そして自分をありのままに表現することが、怖くなった。

それでも楽しい中高時代だった。部活もそれなりに楽しめたし、素の自分になれる友人もそれなりにいた。きっと、とても幸せな方だったと思う。

でも、私は常に「本当の意味では馴染めていない」気がした。

私は「社会に適合」していったのだ。
自分が所属しているグループの価値観や当たり前、流行りに適合した。全く自分を演じていた訳ではないが、少し違う形の型に自分をはめようとした。
変なことをして人を笑わせたり、流行りのアイドルの曲を一生懸命聴いたり、「推しの先輩」を追いかけたり(女子校あるあるかな)。

頑張って「普通」に溶け込んでいる自分になりたかった。
そう、その時のベストは「普通」であること。
平凡で、なんの変哲もない、特別感もキラメキもない高校生活。

心の奥底で、そんな人生に「ハマり」きっていない自分は感じていた。
でも、その度に無意識に思っていたのだろう。
「普通でいられるなら、自分はいびつになってもいい」


自分を削って生まれた存在意義

大学生になって、私はやっと居場所を見つけた。
高校生向けのサマースクール「HLAB」を運営する教育NPOだ。
人生で初めて生きがい、自分が存在する意味を見つけた時だった。
平凡で、なんの変哲もない人生から、抜け出させた瞬間。
私はやっと、「ハマる」場所を見つけられたのだ。

それから10年。
私にとって、HLABは人生の転機。そう語り続けてきた。

HLABを通して、私は色んな価値観を身につけた。

自分の全てを犠牲にして、社会や他者のために貢献する
常により高みを目指し、常に最善を尽くす
泥だらけになって、苦労することが、成長や意義への道になる

やっと居場所を見つけた私は、異常なほどこの価値観を体現しようとした。
そしていつの間にか、それが「本当の」自分になっていた。

大学卒業後、自動車メーカーの人事に就職した。
そこでも、私は誰よりもパッションを持って、仕事に向き合った。
仕事が生きがいだった。趣味を聞かれたら、「仕事です」と笑顔で答えた。

自分の仕事に対して、100%の自信を持つことはなかった。
でも、自分の仕事に対する向き合い方に対しては、誰にも負ける気がしなかった。

どんなに辛くても、自分の仕事に意義を見出して、頑張れた。
泥だらけどころか、雷に打たれ、台風に吹き飛ばされながらも、頑張った。
自分を削って、削って、削りまくって、存在意義を見出していた。

気づいたら、癌になっていた。

痩せこけた自分をsnowでいじりたい


半年間休職して、闘病生活を送った。卵子凍結、抗がん剤、放射線。
無事寛解をして戻った後、身体への負荷による再発の恐怖で、仕事に打ち込むことが怖くなった。
でも、仕事に打ち込むことは、自分の存在意義。
健康な人生と、存在意義のある人生を天秤にかけ続けた。

もがいて、もがいて、少しずつバランスを見つけた。
そんな時に、夫の海外赴任でメキシコ移住が決まった。


ただ、クロワッサンが欲しかった

休職をして、メキシコに来た。
一年を通して気温は平均15~25°、毎日青空の快晴。まさに人生の夏休み。

でも、仕事を失った私は不満だった。
夫と一緒にいたくて、自分で選択した帯同休職だったが、毎日家事ばかりしていて、自分の存在意義を見失った。
「私はあなたの家政婦じゃない!」と、夫に言い放った。

縁があり、海外から働ける会社に声をかけてもらった。しかし時差の関係で破綻。自分を否定された感覚で、絶望した。

傷ついた反動で、「いっそのこと、私生活に重心を振ろう」と決めた。
「メキシコでのテーマは、自分の人生を生きることです」と人に伝えた。

スペイン語を勉強したり、コーチングの資格をとったり、犬を飼い始めたり、油絵の教室に通い始めたり。それでも、満たされなかった。
徐々にコーチングのお客さまが増え、人と繋がり、貢献してる感じがした。
そう、これ。これが欲しかったんだ。そう思った。

そんな中、迎えた29歳の誕生日。

私にとって、誕生日は「新しい自分に生まれ変わる日」だ。
前日の夜は、頭のてっぺんから足の先まで磨き上げる。ちょっと高い入浴剤を入れて、ゆっくり湯船に浸かり、頭皮マッサージとトリートメント、ボディスクラブをし、酵素洗顔で仕上げる。お風呂からあがったら、ストレッチポールで存分に身体をいたわり、爪を切って、歯を磨いたらフロスもする。朝起きた時、綺麗な家に目覚められるよう、家を片付けておく。2ウィークアキュビューを2ウィーク使っていなくても、翌日のために新しいものを出しておく。最後に、頭皮マッサージをもう一度して、まつ毛美容液を塗って、眠りにつく。

無意識の内に、「明日からの新しい自分に向けて、全部綺麗にしておこう」と思っているのだろう。それくらい、誕生日は私にとって、特別な日なのだ。

そして運命の4月17日。
気持ちよく目が覚めて、カーテンを開けて、メキシコの美しい朝日を見て…という29歳初日にふさわしいモーニングルーティンを想定していたのに、前日の「自分磨き」で夜更かしをしてしまったからか、ベッドから起きられない。

夫は「お誕生日おめでとう、生まれてきてくれて、ありがとう」と一言残して、犬の散歩に出かけた。私はウトウトしながら、「あの美味しいパン屋さんのチョコクロワッサンを買ってきてくれないかなー」と考えていた。

そして30分後、帰ってきた音がした。期待に胸を膨らまし、リビングに行くと、「朝ごはんは、昨日余った鮭で鮭茶漬けでもするー?」と彼が。
私は思考停止して、思わず「お腹空いてないから」と言った。
彼は心配そうな顔をしながら、「誕生日おめでとう」と手紙を渡してくれた。
小さな声で「ありがとう」と伝え、私はベッドに戻り、モヤモヤし続けた。

私はクロワッサンが食べたかったのだ。というか、誕生日に、残り物を食べたい人なんているのか?彼は、私の誕生日を特別だと思っていないのか?いや、でも手紙をくれたのだから、特別だと思ってくれているはず。
なんだか泣けてきた。なんで私はこんなにクロワッサンが食べたいのだろう?そんなことで泣く29歳、バカすぎる。自分が嫌い。
自分のことが嫌いだから、私は外に存在意義を感じようとするのかもしれない。そのために、これほど仕事を欲してるのかもしれない。

ああ、仕事をしてない自分、ただ存在してるだけの自分を好きになりたい。

夫が心配そうに寝室を覗き込んで、シクシク泣いてる私に気付いてくれた。自分の気持ちを全て伝えると、いつも通り、まるっと受け止めてくれた。
そして、一緒にクロワッサンを買いに出かけた。

手に入れたクロワッサン

「本当の」私に会いにいく

その後、私はずっと「本当の」自分を探す旅をしている。
ただ存在する”素の自分”が好きになりたいけど、それはどんな自分なのか。
そんな自分であるために、何を大切にして生きたいのか。
逆に、これまで”身につけてきた”何かを捨てるべきなのか。

私は、幼少期の頃の根拠のない自信と、満面の笑みと、変てこなエネルギーで溢れた自分がとっても好きだ。
でも、大人になっていく過程で、社会や周囲を満たすことが、自分自身を満たすことよりも圧倒的に大事になっていた。

今も、私は色んな言葉に縛られている。
常識・良識、人への貢献、期待に応える、空気を読む。
それらは社会で生きていく上で、ある程度は必要なものだとも思う。


では、どこまで自分を削って、社会や他人に合わせていくのか?


今の時点では答えはない。
でも、疑問を持てている自分が、いいなって思える。

きっと「本当の」自分がどういう人なのかは、答えが出るものではない。
たった一つの答えに収まるものではないし、変わりゆくものだから。

でもこうして、「本当の」自分を探求しながら、体現できる時間と場所を増やし、社会や他人との心地よいバランスを色々試す、このプロセス自体が大事なんだと思う。
「私は今、100%自分らしい人生を生きてる」と思える瞬間が、少しでも人生に増えていったらいいのだと思う。

だから、私は時間をかけて、「本当の」自分に会いにいく旅を楽しもうと思う。その旅を、このnoteに綴っていきたいと思う。

そして少しずつ、この写真のような笑顔になれる瞬間を増やしていけたらいいな。

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