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【216/1096】内受容感覚を磨く

216日目。今日は書道で、久しぶりに行書、草書、隷書を書く。しかも先生の前で見られながら書いたので、気持ち的には緊張したが、手は動いた。隷書はかなり久しぶりだったが、身体で覚えたことは忘れないのだなと思う。大先生に「速度に頼らず、落ち着いた運筆を」という指導をいただいたので、今月はそこを意識して練習しよう。


内受容感覚というのは、私が神経系の学びをしていて得た知識だ。

内受容感覚とは、触覚、聴覚、視覚などをを介して外部環境をとらえる外受容感覚に対して、呼吸、痛み、体温、心拍、胃腸の動きなどの生理的な状態に関する感覚や内臓感覚のことである。内受容感覚は、現代では、ホメオスタシスの維持に必要不可欠な機能といわれ、内受容感覚によってもたらされた身体内部の情報を使用し、身体機能を恒常的に維持していると考えられている。

内受容感覚の概要と研究(庄子雅保)より

自分の身体の内側の感覚にどれだけ気づいているか?ということが、自分の全体性を維持する、回復するのにとても重要ということと理解している。

最近では、内受容感覚と感情との関係が徐々に明らかになってきていて、心身症の人は感情を感じられない(失感情)ということがわかっていたが、心身症の人は感情への気づきだけではなく、身体への気づきにも乏しいという臨床的知見が出てきているらしい。

要は、身体反応をいかに感じ取るか?ということと、感情の感じ取り方の間には関連があるということだ。身体の感覚にどれだけ繊細に気づけるか?は、自分や相手の感情を感じることと同じってことだなと思う。

私が、昔、感情と言えば激しいもの(つまり、怒りや大喜び)しか感じ取れなかったのは、自分の身体の感覚もかなり大雑把にしか(痛いか、かゆい)感じ取れなかったからだなと思う。

肩や腰が痛いのは普通で当たり前のことで、身体はどこかしら痛いのがベースであった。
実のところ、身体が「どこも痛くない」の記憶はない。
たぶん、生まれたばかりの赤ん坊のときはどこも痛くなかったとは思うが、そのころの身体感覚の記憶がないので、覚えていない。

身体のことに取り組み始めて、この内受容感覚が年々磨かれていると思う。
身体は正確にやれば、そのまま正直に応えてくれるため、感覚は即座に変わる。
その変わった感覚を日常維持できるようになるのはまた別ではあるが、とにかく変わることは変わる。

昨日、肩をあけて、だいぶ感覚が変わって、さらに今日、いつもの魔法使い(鍼灸師の先生)のところで、がっつり調整してもらった。
「この後、調整法やったら全然違いますよ。特に動的瞑想おすすめ」
と言われたので、帰宅してさっそくやる。
受け取る感覚の微細さが、当社比50倍は違った。
動的瞑想は、「待って、キャッチして、応じる」動きで成り立っているが、キャッチできるものが違いすぎた。
面白すぎる。

治療としてがっつりやってもらっているとき、肩をぐりぐりしているとき(かなり痛い。生理的な涙がつーっと出てくるくらいには痛い。)に、たくさんの子どもが「キャー」と笑いながら大喜びして、上から下に落ちている遊びをしている図が思い浮かんだ。
こんなに痛いのに、なぜきみたちは大喜びしておるのだ?!と思ったけど、凝り固まったのがほぐれたのが嬉しいのか、と納得した。

私は、とにかく、身体をやるまでは、感じないように防御してきた。
言ってみれば、トラウマとは感じなくするための防御壁である。(秩序立って建っていない壁なのでやっかいではあるが。)
感じないから、感じるへ転換したら、まるで違う感覚になる。
そして、やっぱり、どんなことも、感じることが生きていることそのものなのではないか。
凝り固まったまま感じているものではなく、そのままの感じるフィーリングを私は感じて受け取りたい。
感じるのは身体である。
身体で感じたものを言葉にする。
自分と一致した言葉でつながることができるといい。

では、またね。






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