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【546/1096】映画鑑賞記録「ジュリアン」

フランス映画はものすごく久しぶりに観た。

本作が長編デビューとなるフランスの新鋭グザビエ・ルグランが、第74回ベネチア国際映画祭で最優秀監督賞を受賞したヒューマンドラマ。離婚したブレッソン夫妻は11歳になる息子のジュリアンの親権をめぐって争っていた。ミリアムは夫のアントワーヌに子どもを近づけたくはなかったが、裁判所はアントワーヌに隔週の週末ごとにジュリアンへの面会の権利を与える。アントワーヌはジュリアンに、共同親権を盾にミリアムの連絡先を聞き出そうとするが、ジュリアンは母を守るために必死で嘘をつき続けていた。アントワーヌの不満は徐々に蓄積されていき、やがてジュリアンの嘘を見破るが……。
2017年製作/93分/G/フランス
原題:Jusqu'a la garde
配給:アンプラグド

映画.comより

DVにより離婚調停した後の共同親権の危険性について、非常にわかりやすく描かれた映画。
本当に、この構造は、世界共通で、日本だろうがアジアだろうが、アメリカだろうがヨーロッパだろうが、みな同じ。
おどろくほど同じ。
誰かコピーして組織的に生産しているのではないかと思うほどに同じ、である。

日本でも離婚後の共同親権の導入について検討されているが、私は明確に反対である。
(離婚後の共同親権のリスクについてはこちらが詳しい)

離婚後に子どもが両親双方との面会をすることをもめることになるのは、高葛藤状態の場合である。
離婚することになったとしても、双方が合意し、対話が成り立つ関係性であれば、夫婦が別れたとしても子どもとの交流について対話することが可能である。
が、DVにより何とか離婚に持ち込めたケースで、子どもの共同親権を加害者側が要求した場合にどうなるか?というのがこの映画である。

映画として成り立つようにサスペンスタッチになってはいるが、誇張されているとは感じない。
このストレスフルな感じがずーっと続くのがDV関係である。
冒頭の司法による調停の場で、子どもであるジュリアンの手紙が読まれる。

「あの男が来るのが怖くて外で遊べない」

ジュリアンが自分の言葉で書いた手紙であるが、それをあたかも妻側が子どもを操作して書いたかのように訴える夫側。
離婚訴訟を取り下げて、調停にしていることがさらっと言われるが、まさにDV関係であることを想起させる。
子ども側の真実をつきつけられても、職を失い、失業保険をもらってしのいでいる妻側よりも、定職につき社会的に認められている夫側の言い分を司法が加味して、共同親権が認められてしまう。

ここから先が悲劇である。
父親に会いたくないジュリアンは、隔週で父親にずーっと脅され続ける。
「ミリアム(妻)の居所を教えろ」という圧がすごい。その執念たるや恐ろしい。
新住所は元夫側には伝えられず、ミリアムの実家へ送迎しており、元夫はなんとかして、ミリアムと二人になりたいのである。
母に暴力をふるう父を心底脅威に思っているジュリアンはなんとか言わないように、連絡できないように、恐怖に震えながらもそのストレスに耐え続ける。

「俺には知る権利がある」と、拒絶されればされるほど、一方的に執着を強めていくアントワーヌ(父)の様子が、これまた典型的なDV加害者であり、母のミリアムは典型的なDV被害者でもある。

この蟻地獄のような世界から、いったいジュリアンはどうやったら抜け出せるのか?
司法はなぜ、強者の味方なのか。

ラストは、衝撃のシーンではあるが、
これが司法が共同親権を認めた結果なのだ、という監督の静かな怒りを感じた。
守るべきものは誰か?
子どもが危険にさらされるのを、なぜ放置するのか。

穴の開いた扉が問いかけている。

この問題は、離婚していない、離婚する予定がない人たちにとっても対岸の火事ではない。
共同親権が導入されたら、街中にこのような子どもたちが増えることになる。
自分の子と同じ学校に通う友だちがこのようなストレスにさらされて生活しているとしたら、それは自分たちにも少なからず影響を及ぼすことになる。
そして、今の制度は「離婚後単独親権」であることが前提ですべてつくられている。導入されればそれが変わる。
ということは、単独親権でない両親にも(要は婚姻続行中の人たち)多大な影響が及ぶのである。

では、また。

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