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【605/1096】思ったことを言う

台風がきている。
外の雨の音が家の中でここまで聞こえるのは久しぶり。
こんなに早く、本州のほうまで台風がきたことなど記憶にない。

そんな中、今日は呼吸DOJO。
存在としてのコミュニケーションを学ぶ。
コミュニケーションの技術ではなく、あり方そのもののコミュニケーション。
すべてのベースになるもの。
コミュニケーションの技術を教えてくれるセミナーは数限りなくあるが、そのベースとなるあり方としてのコミュニケーションを学べるところはほとんどない。
たぶん、世の中的にそれは「基本的に身についている」ことが前提なのだろうと思う。
けれども、実はこのベースがないままに技術だけ学んでいるということが多々ある。
そしてコミュニケーション齟齬が起きるのである。

今日のクラスも非常に面白かった。
人のコミュニケーションを観ているという時間があったのだが、人のを観るとわが身を知る。

存在としてのコミュニケーションが成り立っているときは、
「思ったことを言う」のが大事だ。
(逆に言えば、存在としてのコミュニケーションが成り立っていないのに、思ったことをなんでも言ったら不都合が起きる。)

クラスは安全な場であり、チャレンジする場として最適なので、自分の「思ったことを言う」を意識してみた。

しかし、意識したにも関わらず、「無難なことを言う」という選択をしたのが複数あった。
言った瞬間に、ああ!日和った!!!と思ったり、言ったあとにジワリとあー、ちょっと違ったなーと思ったりして気づいたのだが、もう言った言葉は取り消せない。。。
そこはもっと慎重になっていいところだぞ!と自分の慎重さに喝を入れよう・・・。

最初に自分が思ったことを打ち消して、外側(この場合はその場にいる人)が良いと思うのではないか?もしくは、これならば傷つけずに済むのではないか?と思った言葉のほうを選択した。
こう書くと、しっかり考えているように思うが、これは瞬時に起きていて、最初に思い浮かんだことを打ち消す、無視する能力の高さ(!)に驚く。

無難なことを言いがち、ということはハッキリわかったので、次からは無難とはオサラバしよう。

「思ったことを言う」というのは、ある意味、むき出しの無防備さで、自分を明け渡す感じなので、心もとなく、もじょもじょざわざわと言う感じがする。
そうなると、「不快」な感じがする。
でもこれ、不快だと思い込んでいるだけで、ただ感じているだけなのだ。
いままでがいかに感じていなかったかということなだけで。

これに気づいたとき、
いやいや、自分は本当に感じすぎてつらい人生だった。HSPだし。繊細さがつらい、と思って生きてきたのだ、
「全然感じてない」ってどういうこと?!となった。
でも、感じないようにしてきたのは間違いなかった。

感じる自分でコミュニケーションするというのは、
身体があって初めて成り立つ。
本当に身体と仲良く、身体の声を聴いて、ととのえておかないとコミュニケーションと言うのは成り立たない。
ノイズだらけの身体では、自分の声も聞けないのに、人の話など聴けるはずがなかった。

身体の声を聴くと言うのは、ふんわりしたものではなく、具体的なものだ。
自分の身体の生体反応をいかにキャッチできているか?
その精度がどのくらいあるか?ということだから、聞けてるか聞けてないかすぐわかる。
いつも頭の中がうるさい人は、身体の声などほとんど聞いていない。
症状が出て初めて身体がなんか言ってると思うくらいか。
症状が出る(病気、ケガ、痛み、かゆみなどなど)のは末期なので、これが聞けなかったら、耳元で大声で怒鳴られてるのに聞こえないと言っているのと同じである。

人と人としてのコミュニケーションを成り立たせるためにも、身体の声を聴き、自分の身体のノイズはなくして、感じることのできる自分でいることは非常に大事なことだ。

呼吸DOJOなのに、なんでコミュニケーションのことやってるのか?と思われる方がいるかもしれないが、自分の身体やあり方を決めるのは、呼吸だからである。
呼吸は、非常に優秀な指針だ。
その指針を頼りに、コミュニケーションを磨いていこう。

では、また。


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