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【793/1096】自分に向き合う

自分に向き合う、自分の観ていない部分を直視する、というと、なんだか怖いことをしなくてはいけないというような気持ちがあった。

私の場合、心理の曝露療法などを受けたときにかなり怖い思いをしてしまい、二次トラウマになったりした経験があったり、イメージで向き合うスピリチュアル的な手法ではそのイメージ自体が相当怖いものだったりして直視すると言うのはこわい思いをしないといけないと思っていたのもある。
そして、その怖い思いをしても、全部はなくならないじゃん、と。結局、まだ向き合うのか・・・というのが残る、と思っていた。
ちなみに、曝露療法でものすごく上手くいくケースもあるし、イメージを使った手法がものすごく合うケースもあるので、これは私の場合ということであるが。

だから、本当の本当に向き合うには、かなりの準備が必要だし、一生向き合えなくても仕方ない、向き合わなくていいなら向き合わずに済めばいい、くらいは思っていた。

しかし、向き合って直視しなくてはいけないものは、何度でも巡ってやってくるのである。目の前に。
必ずそれを直視せよ!ということなのだろう、と思う。
自分に向き合うのは、やりたくてやったというよりは、
もうやらざるを得なくてやったと言う感じ。
とにかく、今年はこれを逃げずにやろうと決めて、ずっとやってきた。
秋くらいに、いったん終わった。

やったことは、ただひたすら観る、のみ。
自分に湧いてきたものを観る。
観て、消化する。
細胞にまざる。
みたいな感じであった。

今まで何度も専門家にお金を払って話を聴いてもらったこともあることだったし、セラピーも受けていることだったけど、全部は見切っていなかったということだ。

過去のイヤな経験で、出来たら思い出したくもないことではあったけど、自分に起きたこととして、ただ観る。

直視すると、それ自体はいやな経験のままであり、その経験をもう二度としたくないというのは変わらないが、経験として終わったものになった。
今までは、もう二度と経験したくない、に加えて「どうして私がこんな目に遭わなきゃいけなかったのか」というのがあり、それが経験したことをなかったことにしようとしていた。

向き合いたくないものを直視をするのに必要なのは、この経験を消化するのに耐えうる身体であり、息をあげずにいられることである。
防衛反応を出したまま、直視することはできない。
防衛反応を出していた分だけ、観ない部分が残るし、見切ったことにならず、終わらないのだ。過去に「まだ向き合うのか・・・」となったのはそのせいだった。

つまり、自分の内側で何が起きようとも、呼吸のニュートラルで動ける状態でい続けるということであり、それを観察する、観る力をつけておくということである。
気づき続ける力。
観察力。
そういったところか。
私の場合は、脳の鈍り切ったところを、もう一回磨きなおす必要があった。

そのためには、呼吸である。
自分の呼吸がどれだけ整っているか。
ニュートラルのままでいられる範囲を広げられているか。
日々の生活全部が、これにつながっている。

自分に向き合わずに、自分を知ることはない。
自分を知らずに、自分の中心にいることはないのだなと思う。

向き合ってみれば、特に恐いことでも恐ろしいことでも大変なことでもなかった。
ただ、観ればよいだけで。
そして、前からこうだったよな、と思う。
こっちが当たり前、というか。

そして、人を支援するとき、自分がどれだけ向き合って、直視したかの部分までしか支援できない。
これはもう本当にそうだ。
自分が観れないところは、人と関わるときにも観れないのだから。

これも、いったん終わり、また次へ。という感じでもある。
自分に向き合うには、そのためのリソースや環境や周りの人たちの見守りや、そういういろいろなものが必要で、それが今あったことに感謝だ。

では、また。



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