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「私ならこうする」は、自分の価値観を相手に押し付ける危険をはらんでいる。

「自分ならこうする。自分はこうだと嬉しいから、他人にもそうする」という考え方を是としているフシが過去の私にありました。

それって例えば、
私はプレゼントを貰うならこんな物が欲しい。
だから人にプレゼントする時はそういう物(自分が欲しい物)を選ぶ。
しかし、相手が欲しいものはそれではなかったりする事がありますよね。
私が大好きなのだからあなたも大好きに決まっている とは限らない。

例えば、
贈り物を貰ったら絶対にお返しをする。それが正しい行為だと思っている人は、それをしない人を否定し、また、
自分があげた物を目の前で使っていないと恩知らずだと短絡的な判断をしたりする。

思うに、「自分ならこうする」を相手に対してやる事だけなら良いが、
相手も自分と同じ行動をとるべき、と考えるのはどうかという事です。

「私ならこうする」は、自分の価値観をそのまま他人に当てはめてしまう危険性があると考えます。
他人を思いやっているつもりで、実は自分の思い通りに事を進めたい表れなのかもしれません。

よく、道徳教育などで、
相手の立場を考えよう、と言われて来たように思いますが、
相手の立場や気持ちを想像して行う行為は尊いと思います。しかし、
「私ならこうする」は一見耳障りがいい言葉だけれど
本当のところは自分の思う正義をかざしているだけで、相手の気持ちに寄り添ったり、慮っている事には全くならないように思うのです。

相手のために良かれと思ってやる事も同じで、その正体は、相手を思っているのではなく、自己満足でしかない。(場合が多い)

被災地への物資の寄付行為なども、一見良い事のようであるが、
私があなたの立場ならきっとこれが欲しいだろう。と勝手な想像をして不要な物を送りつける事は
単なる自己満足に過ぎないどころか処分の手間が増えるだけで迷惑な事にもなりかねない。
自分が寄付する行為に酔っているだけならまだしも、見返りを求め、今度は、「お礼」をしない相手を非難する行為に及ぶ事もある。
これも、「私ならこうする」と考える事の弊害ではないかと思う。

「私ならこうする」は、
相手にも同じことを求め
それが叶わないと知るや、
「わたしのやり方をやらないあなたは変な人」「自分の提案を受け入れないあなたがおかしいのだ」と他人をジャッジする事になりかねない。

自分の正義を自分の中で発動して生きていくのは勝手だし、心の中で人を非難したりバカにしたりするのも勝手だけれど
あなたも自分と同じ事をせよ、と、ネット上であっても言われる筋合いはなく(私が言われた訳ではありませんが)到底受け入れられるものではない事を今一度確認しておこうと思いました。

他人の正義や行動に対して(特に特定の人のそれらに対して)人が公にとやかく言う、それが「誹謗中傷」なのではないでしょうか。
心で思っても構いませんが、公に非難する事、そういう記事を私は読みたくありません。

なお、私がここに書いている事は、あくまで私個人の一意見に過ぎません。

今日は、下書き記事を加筆修正して投稿させて頂きました。

最後までお読み頂き
誠にありがとうございました。


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