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初めてのパリコレ

エルメスの日本支社に入社して1年が経った1988年9月、初めてパリコレのために、フランスに出張した。パリコレと言っても、各店舗のバイヤーが買付を行う「バイイングコレクション」で、一般的に「パリコレ」と呼ばれるプレス向けのファッションショーとは異なる。

当時は、まだパリ郊外に本社が移転する前で、パリのフォーブルサントノレの店舗と同じ本社社屋内が、買付会場だった。社内では、この「バイイングコレクション」は、「ポディウム」と呼ばれていた。「ポディウム」は、表彰台の意味であるが、プレタポルテのファッションショーのために、ランウェイ用の台を並べることから、この名前が付けられたようだ。

「バイイングコレクション」は、プレタポルテだけでなく、バッグ等の革製品、スカーフ・ネクタイといったシルク製品、靴、アクセサリー、家庭用品等すべてのブースを回って、半年分の商品を発注する。基本的には、日本から買付のために訪れている、百貨店、専門店のバイヤーのアテンドをして、商品説明の通訳、日本で強化販売していく製品を紹介する等、買付のサポートをするのが仕事だった。

1988年9月のバイイングコレクションは、1989年春夏の商品の買付が対象だ。1989年は、フランス革命から200年の記念の年。プレタポルテのコレクションでは、フランス革命をモチーフにしたスカーフ柄のブラウス、三色旗をモチーフにしたプリントなど、エリック・ベルジェールがデザインするレディスのプレタポルテは、圧倒的な華やかさを誇っていた。ファッションショーを間近で見るのは初めてだった私には、夢を見ているような時間だった。

この時、2週間のバイイングコレクションに、エルメスの日本支社から出張した人数は、わずか4名。買付業務が終わると、食事のアテンドをするが、食事が始まるのが遅いパリでは、毎日レストランを出るのが22時過ぎ。そこから、電卓をたたいて買付金額の集計をする。毎日ベッドに入れるのは、夜中の2時過ぎで、体力的には過酷な日々でもあった。

パリコレ

辛いことばかりではなく、素晴らしい体験も多かった。エルメスの本社が買付に参加しているすべての人たちのために開催してくれるパーティーでは、本物のサーカスが披露された。料理は、ル・ノートルのケータリング。そのパーティーとサーカスのテーマも「フランス」だった。

ある意味内輪の仲間であるバイヤーとスタッフのパーティーに、ここまでのおもてなしをしてくれることに、心底感動した。この時に感動を、出張後のレポートで「私たちは、夢を売る仕事をしていると思いました」と書いたところ、当時の社長が後日そのことを覚えていて、褒めてくれた。めったに人を褒めることのない厳しい社長であったが、社員を本当の子供の様に思いやる、深い優しさを持った父親のような存在だったので、厳しい父親に褒められたようで、とてもうれしかった。

初めてのパリ出張で学んだのは、「夢のような世界」と「馬車馬のように働いてその華やかさを演出するバックステージの過酷さ」のコントラスト。憧れていた仕事ができる喜びもある一方、限られた時間の中で、自分のコンディションを管理するのは、大変なことを思い知った。

帰国日が決まっている中で業務を完遂させるプレッシャーの中、睡眠不足が続いたことがたたって、帰りの飛行機の中で倒れてしまった。一人きりで搭乗している状況でのことだ。それでも、キャビンアテンダントの方に薬をもらってなんとか復活し、成田空港から銀座のオフィスに直接向かって、日本からのプレス発注を24時までお手伝いして、やっと家に帰ることができた。

今では、すべてがいい思い出。ひとつひとつの苦労も、少しずつ昇華してノウハウとなり、自分自身の支えとなった。また、「何が何でもやる」という強い気持ちが自分の中にあれば、何とかなるものだと教えてくれた、最初の出来事でもあった。

この時、フォーブルサントノレの本店で紫色のカシミアストールが目に留まり、どうしてもほしくて、当時の私には分不相応な価格だったにもかかわらず、自分へのご褒美として購入。このストールは、30年以上経った今も、愛用に足る品質を保っている。使いこんだ年月を考えると、とてもリーズナブルな価格だ。そこがエルメスのすごさである。

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