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素晴らしい仲間のおかげで自分を発見できた、私のインナージャーニー

「私らしいはらき方」とは何か?
このテーマについて、この1年ほど深く、つきつめて考えたことはない。
正直に言えば、「つきつめる」というレベルを超えて、「精神的限界」まで自分を追いつめた。

私は現在59歳、来年の1月に60歳になる。企業では定年を迎える年齢だ。
私が自分の限界まで追い詰めたと感じたのは、この定年間際の「年齢」によるものと、どんなことよりも長く続けてきた「勤め人」という生き方ができなくなる時期にさしかかっていたことが原因だった。

2020年8月、私は58歳の時に新規事業の責任者として、転職した。その前は小さい会社ながら副社長という立場であったこと、定年間際の58歳という年齢での転職に、迷いがなかったわけではない。しかしながら、最終的には、得意としてきた新規事業の立ち上げに新たに挑戦できるのは最後のチャンスであり、自分を最大限活かせる道だと思い、転職を決めた。

しかし、ここで大きな挫折が待っていた。原因は、外資系企業でしか働いたことがなく、10年ほど上司は外国人という環境に身を置いていた私にとって、日本企業の意思決定プロセスがなじまなかったことだ。ブランディング計画、事業計画、販促計画として提案したプランは、すべて否決された。

入社から4ケ月あまりが経った12月には、生まれて初めて心療内科に電話診療を依頼するほど、精神的ダメージを受けていた。自分は精神的にタフな人間だと信じていた私にとって、自分の弱さを知ったこと自体、大きなショックだった。その後も、胃痛、頭痛、歯痛、めまい、坐骨神経痛と、あらゆる体の不調が続いた。

2021年の春には、自分が勤務を続行するには無理な状態にあること、私の提案は相変わらず受け入れられない状態が続いていたことから、退職を決意した。決意してから3か月ほどの引継ぎ期間を経て、7月末に最終勤務を終えた。不思議なもので、私を悩ませていた体調不良の症状は、会社から離れた時にはすべて消えていた。

1年間の苦悩から抜け出し、勤め人という長く自分に染み込んだ立場を離れて、新しい道で生きていく決意をすることができたのは、素晴らしい出会いのおかげだ。

2021年1月に、偶然に見たFacebookの広告で知ったマツダミヒロさんの「しつもん電子書籍出版マスター講座」をオンラインで受講した。会社勤務を終えた時、自分がどんな人間であるか、どんな価値が提供できるのかを、書籍で伝えるのが一番いい方法だと思ったのだ。大学時代文学部で学んだ私は、いつか本を書きたいという希望はあったものの、本の執筆に挑戦するのは、初めてだった。

マツダミヒロさんと一緒に、この講座の講師をしていた、問出版の編集長、藤岡信代さんがとても素敵な方で、直接会って話をしたいと思い、連絡をした。その後、執筆に関し、雑誌の編集長の経験を持つ彼女のコンサルティングを受けている。

当時はまだ、会社勤務をしながらの状態だったので、勤務終了後と週末に、集中して書く。最初に立てた目標は、ブログを始めて、ある程度文章の量がたまったところで、電子書籍にすることだった。自分が経験したこと、キャリア、その中から見出したノウハウ等について、書き始めたが、うまくいかない。話の焦点が定まらないし、読者の必要とする情報が何か想像もつかず、筆も進まない。

そんな中、突然「自分の本ではなく、素晴らしい経営者の物語を綴りたい」という思いがこみあげてきた。かつてビジネススクールのクラスメイトだった、経営者の顔が頭に浮かんだ。当時代表取締役を務めていた会社を辞めて独立したその経営者へのエールになるような本を創作したいと思ったのである。すぐさま彼に連絡をすると、この申し出を受け入れてくれた。なんともありがたい話だ。ここから、私の執筆活動が始まった。

「書く」という行為が、私を救ってくれた。自分の内側に長いことしまい込んでいたものを、表現することで、気持ちが軽くなり、癒される感覚があった。題材となったクラスメイトの経営に対する考え方は本当にすばらしいもので、書きながら涙することもあった。「書く」という行為は、「価値を創造し、伝達する」ことであり、それができるのは本当にありがたいという思いを噛みしめながら、執筆していた。

一方、会社に属する「勤め人」の立場を離れて、フリーランスという立場になることには、相変わらず心理的な抵抗が続いていた。

「しつもん電子書籍出版マスター講座」がきっかけとなり、その後、マツダミヒロさんが主催する2つの講座の受講を決めた。2月には箱根で行われた「ライフメンター養成講座」、4月に山形、6月に沖縄で行われた「魔法のしつもん 認定マスター養成講座」に参加した。

この2月から6月までの講座を通して、私は自分の内面を見つめ直すインナージャーニーを体験し、自分のアイデンティティを取り戻し、会社を離れて前向きに生きてゆこうと心から思えるようになった。

2月の「ライフメンター養成講座」の初日に、「人は、必要のない価値観でがんじがらめになり、たくさんの不要なものを纏ったおばけのようになっています。不要なものをすべて脱ぎ捨てたとしても、あなたの価値は何ら変わることはありません」という話があった。

最初は何気なく聞いていたが、3日間の講座が終わるころには、それはまさに自分のことなのだと、自覚できるようになった。会社での肩書にこだわる部分はなかったが、毎日オフィスに通い、会社の仲間とディスカッションをして仕事を進めていくライフスタイルは、30年以上続けてきた長年の習慣なので、それを手放したら、自分がどうなるのか想像がつかなかった。

一方、最終的なキャリアとしては、独立して好きなことをやりたい、という思いは以前からあり、特にコロナ禍でその思いが強くなっていた。

潜在意識のレベルまで浸みついた長年の習慣を変えるには、頭で考え、理性でコントロールするだけでは、難しいことを悟った。がんばれば、がんばるほど空回りしていた。左脳的思考が強い私だが、理性だけで自分の内側から湧いてくる疑問と不安をねじ伏せることはできず、八方塞がりの状況が続いていた。

苦悩の日々の中、周りの人から「感じることを大切にする」「自分を責めずに受け入れる」「感情がキーになる」「心が望んでいることに耳を傾ける」といったアドバイスをいただいた。その度に「なるほど!」と思うものの、長年そのようなことをしてこなかった私には、とても難しいことに感じられ、腑に落ちず、十分に実践して成果を上げることができなかった。

そんな私が、少しずつ自分を取り戻し、心の声を聞き、望んでいることが何なのか気づくことができ、前向きな気持ちになることができたのは、自分受け入れてくる仲間が現れたからだ。

2月に箱根、4月に山形、6月に沖縄で行われた講座で知り合った仲間は、私が何者であっても、何を望んでいても、どこへ向かおうとしていても、すべてを受け入れてくれた。そして、私自身も相手のすべてを受け入れることができた。その貴重な体験を通して、私は自分を受け入れることができるようになったのである。

すると、運勢が急に好転し始めた。会社を離れて独立するプロセスが、加速したのだ。執筆が進み、フリーランスとしてやりたかった仕事も決まり、引っ越し先も見つかった。新居の近くのコーワーキングスペースを契約して、新たな仕事の拠点とした。

執筆については、「経営者出版」というレーベルを立ち上げ、経営者の言葉を伝える活動してゆくことにした。昔からの仲間も、私の独立を応援し、協力してくれた。

結局のところ、必要なものは、すべて近くにあった。ひとりではなく、長い付き合いの人も、最近知り合った人も含め、たくさんの仲間がいた。自分がひとりだと感じていたこと自体、ただの思い込みだったのだ。

自分にとってこの数か月のインナージャーニーは、本当に貴重な旅だった。

・人を受け入れるということは、自分を受け入れるということ。
・人の長所を認めるということは、自分の長所を認めるということ。
・自分が自分の味方であれば、決して傷つくことはないこと。
・自分が過去にできなかったことを人に対して実践すると、自分自身が癒されること。

結局、意識のレベルでは、自分と人との間にあまり差はない、ということなのかもしれない。自分の強みを見つけたり、自分自身を認めたりするのは、誰にとっても難しいことが多い。私が人の本ならうまく書けると思ったように、自分に対してうまくできない時は、人を褒めたり、人を肯定する言葉をかけたりすれば、それで十分に自分自身も癒されるのだ。

私はこうして、私らしいはたらき方ができる新しいライフスタイルへと、たどり着いた。今私は、江ノ島に住み、フリーランスとしてデジタルマーケティングの仕事をしながら、執筆活動を続けている。ライフスタイルというのは、どこに住むか、何をするか以上に、自分の心が今どこにいて、どこへ向かって進もうとしているか、気づくことなのだと、感じている。

私らしいはたらき方 ---
好きな場所で好きなことをすること。
心の声に耳を傾けて、その方向へと進んでいくこと。
大切な仲間と一緒に過ごすこと。

私らしいはたらき方にたどり着くまでの道のりは、最初は長く暗いトンネルのようなものだった。貴重なインナージャーニーを経て、今は江ノ島の海のように晴れやかに澄んだ心で、仕事と向かい合うことができている。ここまで来ることができた自分と、この場所まで連れてきてくれた大切な仲間に、心から感謝の気持ちを伝えたい。

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