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「分かち合う」を分析する。

前回の投稿で、ワード「分かち合う」が教会で目に止まったと書きました。

「分かち合う」を調べると、

分け合うこと。互いに共有すること。主に痛みや苦しみなどについて用いることが多い表現。

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英語では、

fellowship, share, apportion

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この3つの中では、shareが1番しっくりくるなーと感じました。

英語のことわざで、"Sharing is caring."という言葉があります。これを日本語訳すると、「分かち合うことは、思いやること」。

例えば、お友達とカフェに行った時、食べたいケーキが選べなくて、お互いに食べたいケーキを選んで、シェアする。それは、"Sharing is caring."です。

お互いがハッピーな選択。そして、それをシェアするみたいな。

日本語では、主に痛みや苦しみとされていたのですが、私はもっとポジティブなイメージで受け取っています。

でも見方によっては、私の苦しかった経験をnoteなどで発信することは、入口として苦しみを分かち合うことなのかなと。

その出口は、苦しかった経験からの学びや光の先をお伝えしているつもりなので、最終的に受け取るのは、ポジティブな考え方や結果・選択肢だと信じています。
(そう捉えられていなかったら、ごめんなさい。)

かつての私は、人の相談に乗って話を聞いているうちに、その人になりきってしまって感情を体験してその苦しい波動が憑依してしまったり、こうだったらいいのでは?のように正そうとしてしまうことがありました。

それは、シェアされたことをその場で手放すことができていなかったんだなーと感じています。言い換えると、自分軸ではなく、他人軸で受け入れていた。だから、俯瞰した目で捉えられずに、その人になりきったりしてしまったのです。

「分かち合うことー相手を思うこと」とすると、相談をされた時は相手を思うだけでいいんですよね。シェアしてくれたことに感謝して、「そうなんだね。」「大変だったね。」とただ受けるだけ。そして、その場で手放す。傾聴と一緒ですね。

私の中の「分かち合う」は「傾聴」と似ている感じと理解しました。そして、「その場の手放しを忘れないでね。」というメッセージだったのだと思うのと同時に、

全く人の波動に惑わされなかったり、人を変えようとすることをしないのは、本当の自分に戻れたことや自分を信じる力が大きくなっているからだなと感じています。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。

Mayumi🦩

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