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自閉症の子どもを育てる ⑩

(注)
この文章を読もうと思われた方へ。
「自閉症の子どもを育てる」は私個人の過去の振り返りなので、何かを得てもらおうとか伝えたいとか考えていません。読む人の気持ちに配慮はしておりませんので、嫌な気持ちになられる方もあるかもしれません。
悪しからずご了承ください。(過去分はマガジンにまとめてあります)

それぞれの中学生活

いろいろ悩んで特別支援学校を選んだけれど、彼はやっぱり小学校の同級生と離れたくなかった。

バス停でスクールバスを待ってみたり、公園へ行きたがったりしていた。彼は朝9時にお迎えのバスに乗り、14時過ぎには家に帰ってきていたので、時間帯が合わず寂しそうだった。

最初のお休みの日に、同級生が公園に誘いに来てくれた。一緒に出かけるとき、彼はとびきりの笑顔を振り撒いていた。

部活が始まると、同級生たちは徐々に遊びに来なくなった。それぞれの中学生活が始まったんだなぁと思った。

特別支援学校

特別支援学校というところには、軽度知的障害から重度重複障害(身体&知的)まで、いろんな子がいた。
小学校から特別支援学校にいる子は、比較的手のかかる子が多かった。

ずっとマンツーマンで大人に庇護されてきた彼だけれど、ここではほぼ放置されていた。
大人4人で子ども7人をみる。
一見すると足りているように思われるが、3人がマンツーマン、残りの4人を一人の先生がみるというのが現実だった。

彼はかなり不安を感じていたようで、毎日のように何度も何度も下痢をした。

「それなりに自分のことは自分でしますが、それでも重度知的障害と自閉症があるんです。目の端でいいので必ず何をやっているか確認しておいてほしいです。」

そう訴えた翌日、彼は教室で全裸になって泣きながら何かを訴えた。

教室にいた担任たちは、彼が全裸になっても気づかず、たまたま通りかかった隣のクラスの担任があわてて対応してくれた。
話を聞いて泣いた。

私たち夫婦は、基本的に『学校のことは学校に任せる』という方針をとってきた。でも、これは見過ごせなかった。

学校に直談判した。
頭を下げる担任たちに
「私たちは『特別支援学校』へ入学させたと思っています。裸になって訴えてもも気づいてもらえないのは『特別支援』なんですか?おかしくないですか?」
と詰め寄った。

担任たちは何も言わず、下を向いていた。

「これ以上、こんな状態が続くなら、私が一緒に登校します。」嫌みをこめて母子登校を提案。
その案は断られ『責任持って預かります』と言った。

担任たちは、少なくとも放置をしなくなったようで、忙しいときは「○時○分になったらいくから待っててね」と具体的な約束をしてくれるようになった。
それでも時々、担任にその約束を守ってもらえず、服を脱いで、床に叩きつけて怒ることがあった。

連絡帳には、「今日も服を床に叩きつけていました。」という報告はあったが、その原因については言及されていないことが多かった。
脱いでいることには気づいて注意はできても、理由がわからない程度には、観察ができていなかったようだ。

クラスメイトには、興奮すると数週間あとが残るほど噛みつく子がいた。唾を吐きつける子がいた。

小学校でできていたことが、あっという間に出来なくなった。それを訴えても『彼はよくできる子だから。ねぇ』などとごまかされ、担任への信頼はどんどんなくなっていった。

できなくなって当たり前だ。教える方に継続させる意志がなく、家庭でできることには限界があった。
かまってもらえない彼は、自分も「できない」アピールをするようになった。

学校でも家でも下痢が続き、学校ではお漏らしもするようになって、オムツが提案された。
彼には「学校へ行かなくていい」と何度も言ったが、「がんばります」と言ってきかなかった。

彼にしてみれば、学校をやめる(生活が変わる)ことに大きな不安があったのだ。毎日お腹を押さえてでも学校へ行く。
当たり前だ。小学校からの変化にもまだついていけない。
これ以上大きな変化を受け入れられるはずがなかった。

もうだめだ。限界を超えてる。このままでは彼が潰れる。

退学させて、市の教育委員会がやっている不登校児童生徒のためのクラスに入ることを考え、教育委員会に相談をはじめた。

退学への道が見えてきた2学期の終わり。
ようやく手が足りていないと判断した学校は、クラスに栄養士の先生を教育補助員として入れた。もしかすると教育委員会が何かを伝えたかもしれない。
学校に対して不信感を持っていた私には、それを確認するすべはなかった。

やっと2対1でみてもらえるようになり、『困ったときにだれに頼ればいいのか』を彼自身が理解したことで、落ち着けるようになった。

遅すぎる。

どっち苦手

「これとこれ、どっちにする?」
ものにもよるが、靴下やハンカチなんかどっちでもよかろうに。

彼は選択ができない。

「どっち苦手。ママどっちします」
「今日はTシャツが青いから青の靴下にしよう」

それは毎朝繰り返される。

小学校の4年生からは自分で選べていた。
学校でのプリントも「算数と国語のどっちがいいですか」と言われ「国語」などとちゃんと答えていた。

特別支援学校に入学してしばらくすると、できなくなった。それから今に至るまでずっと選択ができていない。

選択ができるということは、拒否もできるということだ。
嫌なことを嫌と言えず、黙って我慢してやらなければならない機会が減るのだ。

大事なスキルだからこそ、丁寧に何年もかけて習得した。特別支援学校の生活は、この大切なスキルまで使えなくしてしまった。
それまで『いい先生』に恵まれて順調に成長を重ねてきただけに、この落差は大きかった。

どうして繰り返すの?

2年生になればクラス替えもあって、この状態から抜け出せると思っていた私は甘かった。
担任と手のかかる子が変わっただけで、同じことの繰り返しだった。

放置され、誰に頼っていいのかもわからなかった彼は、また服を脱ぐようになった。
廊下で大泣きして全裸になった。
そしてやっぱり自分の担任でない先生に対応してもらった。
今度こそ退学させるつもりで、学校へ行った。

何回言えばわかるんですか?どうしてこれを放置するんですか?このクラスだけでしょ?この状態をどう捉えていて、対処はどうされるんですか?

この話し合いには校長と教頭、学年主任も加わり、かなり揉めた。
2週間毎日学校へ行き、話し合いをした。
その結果、手のかからない子が多く余裕を持って対応できるクラスの担任が、彼のクラスの担任として2人増え、そのクラスには栄養士の先生がまた入ることになった。

バカみたい。

自分自身も含めてあまりにも情けなく、「みんなバカだ」と思った。
私はかなり疲れていた。

バトミントンしよう

3年になっても手のかかる子の多いクラスだった。
手のかかる子を中心に考えているから、彼のような普段は手のかからない子が人数合わせに入れられるのだ。

手のかかる子を一クラスにまとめた方がお互いのためによかったんじゃないですか?
卒業後(高等部進学後)教頭と話す機会があったので聞いてみた。

それでは手のかかる子が他の子とふれあいをすることによって成長するという機会を失ってしまう。
だから、手のかかる子とかからない子をペアにしてクラスに組み込んでいくのだと言われ、なにか釈然としないものが残った。

じゃあ、手のかからない子は後退してもいいんですか?

だが、2年続けて学校と直談判した甲斐はあった。
3年で彼の担当になった担任の中には学年主任がいた。直接彼に関与する連絡係を担ってくれた。
手のかかる子の世話をしながらも彼をちゃんと見ていてくれる『いい先生』だった。

お昼休みには「バトミントンしよう」と誘ってくれて、ブランコを押してくれたり、鬼ごっこしてくれたりした。
一人でぽつんとしていることがなくなった。

クラスメイトに噛まれたり、押されて怪我をすることもなくなった。服も唾で汚れる日がほとんどなかった。

時々、怒って服を床に叩きつけることはあったが、原因は理解されていて、素早く対策をたててくれた。
ようやく学校での居場所を見つけた彼は、下痢の回数が減ってきた。

修学旅行では、先生と一緒に乗り物にのってもらうこともできた。「△先生、一緒です」と、計画段階から楽しんで参加することができた。

旅行先で目を離され、行方不明になるかもしれないから付き添う。と言った親に、「そこまで不安にさせて本当に申し訳ない。必ず楽しい思い出を作って帰ってきます。」担任はそう約束した。

3年生は、新たな発達は見られなかったが、身につけたスキルが目に見えて後退していった1、2年生と比べると、夢のような1年だった。

突き詰めればどこへも行けない

正直、特別支援学校へ入れたことを後悔した。
どうせ放置されるなら、一般中学に行かせた方がよかったのかなとも思った。

結局、特別支援を受けられるのは、手のかかる子だけなのだ。そこにいる一番手のかかる子に人手はとられる。
となれば、おそらく一般中学では加配がついてマンツーマンだっただろう。

ただ、小学校の同級生はやっぱり変わっていった。
女の子は、スーパーで会った時など手を振ってくれたり、近所で見かけたときに鬼ごっこをしてくれたり、手紙を書いてくれたりしたが、男の子は知らんぷりすることが多くなった。

お年頃だしね。
変わって当たり前だけど、その中に彼を放り込んだら、きっと彼は傷ついただろう。

それを思うと一般中学も進路としては考えられなかったと思う。
難しいものだ。

もし、私に2人目の子どもがいて、その子も障害を持っていたとしたら、中学は一般であろうが特別支援学校であろうが、行かなかっただろう。

それくらい、この3年間は打ちのめされていた。

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