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みんな違ってみんないい

SMAPの「世界に一つだけの花」という歌が流行り出した頃から、「みんな違ってみんないい」と口にする人が増えたように思う。

障害や生きづらさを抱えた人たちへの応援歌のように使われることが多いように思うが、その使い方って「ほんとにそれでいいのかな?」と私は思っている。


うちの子は「みんな違ってみんないい」などと思ってなくて、みんなと同じでありたいと思い続けているからだ。

かなり早くから障害はわかっていたので、みんなと同じであれと、指示したことも教えたことも思ったことさえない。

そんな彼が「みんなと同じ」に魅力を感じて、同じであろうと努力することは、別に悪いとは思わないし、ある意味当たり前だと思える。

一人では生きていけない《ヒト》という種が、生きるために群れたいと願う。そのために共通項をもつ仲間がほしいのだ。それを本能ともいえる部分で察知して「みんなと同じ自分」を目指しているのだろう。

この言葉を他人からかけられる人は、上から目線の「みんな違ってみんないい」に辟易しているというのが、実情なんじゃないだろうか?

これは、自分が周囲の人と感じかたや考え方が少し違うと認識して、それでもなお自分のスタイルを貫きたいと思う人が、自分に対して言うべき言葉なのではないだろうか。


「みんな違ってみんないい」などと宣う人が、「普通の人みたいに◯◯ができるようになったね!」などとニコニコして言ってるのを聞くと虫酸が走る。

療育で「みんなと同じことができない」と評価する、「みんなと同じことをさせようとする」のはなぜなのか?もう一度考えてほしいと心から思う。

なにもできなくても良い。だが、本人が快適に過ごせることは大切。そのために「他の人と同じ」にならねばならないことだってある。そんな当たり前のことを見て見ぬふりをして「みんな違ってみんないい」という都合のいい言葉で誤魔化してほしくはない。

みんなと同じにできないことを、どんな風に補っていくかということが大事なのであって、それをやっていかないといずれ苦労するのは「みんな違ってみんないい」と言われ続けた本人なのだ。


健常者の得手不得手を云々言っているわけではない。個人によって得手不得手があるのは当然のことだし、得手を伸ばす才能(努力)も人それぞれなのだから、その部分ではみんな違ってみんないいは当たり前だと思う。学習ペースや習熟目標もみんな違ってみんないい。

それを障害や生きづらさを持った人の何にでもに簡単に当てはめる前に、少し頭を使ってほしい。


最近、3歳のお子さんが自閉症だと言われたというお母さんと話をする機会があった。《みんな違ってみんないい》と言われ、見捨てられたと感じたという不毛さ。

「みんな違ってみんないい」なんてあり得ない。できる人はできるし、できない人はできない。そういう評価なしに社会は成長しない。

まぁ言葉の受け止め方の問題だけとは思うが・・・。

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