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陰翳礼讃

こうやって、言葉を残そうと試みるのは人生でいったい何度目だろう。

日記もブログも何かをうみだすことも、1週間と続いたことがない。

それなのに、懲りずにまたこうして何かを残そうとしている。

自分のどうしようもなさが、どうしようもない。
本当に。


きっかけは、パートナーとの喧嘩だった。

パートナーなんて格好よく表現してみたけれど、法律上の夫である。

夫から頼まれていた仕事を、私が無下にした。

そうなる前に、相談をしてほしかったと夫は怒った。

ここまでは、その場での会話と行動で起きたこと。
事実。


ここからは、表に出ることのなかった内面の話を、言葉にしている。


私は、何度も相談したのだ。

子どもが寝静まった後の夫婦での時間にも、友人を交えたお酒の時間にも。

それでも特に何のリアクションもなく、言葉を重ねてはみたものの、

ふわふわとしたその場しのぎの受け答えばかりが返ってくる。

そして彼は毎夜のように酔いつぶれ、摺り足で家の中を彷徨う。

突然、洗濯機のスイッチを入れ動かす。
トイレとは別のドアを開ける。

台所の床で寝る。
子どものおもちゃ箱に突っ込み転ぶ。
失禁する。


夜中に聞こえる摺り足の音が恐ろしく、私は眠ったり起きたりを繰り返した。

まるで、妖怪が近づいてくる音のようだった。
ずすー、ずすー。

この足音が聞こえると、必ずと言っていいほど恐ろしいことが起きる。

全てを無視して寝てしまいたいけれど、過去に夫がベランダの外へ出てしまったり、

子どもを意味もなく別の布団に放り投げたことがあるので、そのままにもできない。

そうこうしているうちに深い寝息が聞こえてくるので、私もやっと落ち着いて眠りにつくことができる。

これを今の今までずっと繰り返し、結婚して早9年になる。


最近、居を移してきてから仲良くなった友人が、お酒を手放せなくなっていると聞いた。
過去にアルコール依存症の治療をしていたとも。

そして、共通の友人は言った。
「酒に酔っていて覚えていないことも多いから、周りに注意されたり人が自分から離れていくという行動が、本人からすれば唐突に見えるのかもしれないね」と。
果たしてその通りなのかどうかは、私にはわからない。


夫から頼まれていた仕事を私が無下にしてしまった時、怒る夫を見て、しかし私はこの友人の発言を思い出した。


ああ、夫からしたら、いまこの目の前の事実しかないのだろうな、と。

隠し通すのならば、夫がいない日にこっそり証拠隠滅すれば良いだけの話である。

それでも私は、そうしなかった。

わざわざ夫の睡眠を害する音を出し続け、事実、夫は起きて寝室から出てきた。

そして、私の行動を見て、会社の物を無下にした事を責める。

私は、隠れてやらなかった理由も、そこに至る過程も伝えずにいた。

その場でもちろんすぐに謝ったけれど、それだけで場がおさまるはずもない。

家の中の空気が滞り、会話のない空間は、どことなく重みと圧を持ち始めた。


何をするでもなく、鬱々と時間が流れていくのをぼんやりと感じて眺めているだけの、
ただただ無為な時間が流れていくなか、読みかけだった谷崎潤一郎の「陰翳礼讃」(いんえいらいさん)を手に取った。

夫は活字が苦手なようで、「陰翳礼讃」を(いま進めている仕事に役立つかもしれないですよと)人に勧められたが、きっとどうやっても読めないので代わりに読んで内容を要約してくれないかと私に頼んできていたのだ。


陰翳礼讃というだけあって話の中心が暗がりや引き算にあるので、淡々と読むことができ、今の前向きではない私の心の中にもなんの突っ掛かりもなくするすると文章が入ってきた。

そして東洋の美しさを褒め称えるだけではなく西洋のものを貶める言葉の選び方がさすがで、なんともそれを心地よく感じた。

谷崎潤一郎の鋭さというか性格の悪さというかひねくれというか、どんな表現でも良ければどうとでも書けてしまうのだが。



少し性格の悪い言葉選びに心地よさを感じている私は、いま怒りの感情をも自分の中に持っているのだなとふと気づいた。

なぜ自分が怒っているのか、文章にしてみたらここ数日の無力感から抜け出せるのではないかと、人生で何度目かわからない、言葉を残す試みを懲りずにやってはみたものの。


ただの言い訳を連ねた文章と、本の感想にも要約にもならない言葉がここに残っただけだった。



それでも言葉を残すためにここまで書いたのだから、書かなかった昨日までとは違う選択ができたと思いたい。




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